穏やかな夕方の日差しを窓から感じていた。
こんな落ち着いた気持ちでいるのは久しぶりかもしれない。
いつも何かに追われていた。
でもそれももう終わり。
「今日はカレーにしようと思うの。いい?」
母が台所から優しくソファの私に声を掛けた。
私はそっと立ち上がって、コクリと頷くと同時に「私も手伝う」と台所へ向かう。
「あら、珍しいね」
「これでも私、長い間女中の仕事を立派にやってたんだから」
「へぇー。家では全然やってくれなかったのに?」
目を細めながら母は私の顔を覗き込む。
う、と言葉に詰まりながら、近くにあった母のエプロンを借りる私。
髪の毛を高い位置でポニーテールにし、料理の邪魔にならないようにまとめた。
「何からすればいい?」
「じゃあ、人参とジャガイモの皮を剥いてね」
「おっけー」
母から手渡しされたピーラーと人参を手に、私はシュッシュッと一つ一つ皮を剥いていく。
こうして母と台所へ立つなんて、初めてかもしれない。
もっと早くこうしてあげれば良かった、なんて今後悔しても遅いんだけど。
母は冷蔵庫から肉を取り出して、まな板の上に置いた。
「ねえ、お母さん」
「うん?」
いつもと変わらない母の様子に、私はつい口を開いた。
どうしても聞かないといけない事があった。
きっとそんなに長くは一緒に居られないだろうから。
「怒ってる?」
何に、とは言えなかった。
母なら言わなくても分かるだろうと思ってたのもある。
母は表情を変えずに穏やかな笑みのまま「怒ってないわよ」と答えた。
「どうして?」
思わず間髪入れずに聞いてしまった。
怒ってる、と思っていた。
いつまでも帰ってこない娘の事を、ずっと案じてくれていたかもしれない。
結果的にはもう帰る事は出来なくなってしまったし。
母はその質問には答えず、手を止めて私に微笑みかけた。
「お母さんね、夢があったのよ」
包丁を取り出して、ゆっくり肉に刃を入れていく母。
私はピーラーの手を止めて、母を見つめた。
母から責められると思っていた私にとって、母の優しい口調は正直驚いた。
「名前と一緒に台所へ立って、お父さんや和樹、名前の未来の旦那様の晩御飯を一緒に作る夢」
「もう叶わないけどね」と悲しそうに母は笑った。
私は何とも言えない気持ちが胸から溢れ出そうだった。
でも結局我慢できず、それが涙となって頬をゆっくりと伝って行った。
「お母さん、ごめんね…っ、私…」
人参とピーラーを床に落として、思わず母の腰に抱き着いた。
母は少しびっくりして「包丁持ってるんだから」と私のおでこにデコピンを一つ。
「貴方がその事を気に病む必要はないのよ。だって名前は今まで良く頑張ったでしょう?」
さっと手を水で洗い流し、軽くタオルで水滴をふき取ると、母は私の頭をそっと撫でた。
私は母の身体に顔を押し付け、声を殺して泣いた。
「最初はね辛くて辛くて、死んでしまいたかったの。名前が居ないなんて、耐えられなくて」
母の手が小刻みに震えているのが分かった。
声も段々震え始め、鼻を啜る音が聞こえる。
「夢をみたのよ。名前が女中のお仕事をしたり、男の子の世話を焼いたりしている夢を」
「それって……」
ふっと柔らかく母が笑う。
「家の中にいる時よりも感情的で、一生懸命だったでしょう?」と問われ、私は言葉に詰まった。
言われてみればそうかもしれない。
家では和樹とケンカする事があっても、怒鳴りあったりとかではなくて。
自分の欲しいものとか主張する事もあったけど、言うほど執着していた物もなくて。
今と比べると何にも考えてなかった。
「家に居た時よりも、名前の良い所がよく分かるような気がして、少しだけほっとしたのよ」
「良い所か分からないけど…」
唇を少しだけ尖らせて俯いた。
感情的になってもいい事なんてほぼ皆無だ。
時には気持ちに振り回されて、辛い時もあった。
「貴方の良い所なのよ。それが分かっただけで、お母さんは十分だなって」
私の目の縁の涙を指で拭いながら、母が言う。
「でも、私、帰りたくて、ずっと…」
「分かってる。だから頑張ってたのよね?私たちの事をずっと想ってくれていて、ありがとう」
ぎゅうっと母に抱きしめられた。
私も母の背中に手を回して、それに応える。
「結局帰れなくて、親不孝でごめんね」
「そうねぇ」
密着していた母の顔がゆっくり離れて、私の顔を見る。
「まさか、この年齢で嫁がれるなんて思ってなかったわ」
「と、嫁っ…!?ち、違う違う!!」
「あら?違うの?」
母の言葉にブンブンと首を横に振り、全否定した。
おちゃめに笑った母が目を細める。
「……そ、そうなりたいって思ってる…」
きっと私の顔は茹でダコのようになっているに違いない。
母と恋バナをした事なんて一度だって無かった。
こんなに恥ずかしいなら、一生言わなかったかもしれない。
母は「でしょう?」と頷いた。
「きっと名前の事、大切にしてくれるわよ」
「……うん」
母の言葉に大人しく同意する。
善逸さんは、そういう人だ。
「あ、でも、私死んじゃったんだった…」
「はあ、この子ボケてるのかしら」
思い出したように言うと、母が呆れたようにため息を吐いた。
ぱっと身体が離れ、再度包丁を手に取る母。
「そんなバカな事言うくらいなら、早く続き済ませちゃって」
「え、え?…うん」
何だか腑に落ちないが、言われた通りに落としたピーラーを拾い上げた。
「いい匂いするね」
「もう出来上がるわね」
「……そうだね」
「食べていくの?」
母がお鍋を覗き込みながら私に問う。
私は少し考えて、ゆっくり首を振った。
「食べちゃうと、後悔しちゃいそうだから」
「あらら、残念ね。折角一緒に作ったのに」
じゃあ、とエプロンを外して母の渡す。
母はそれを受け取って、笑顔で私の手を握った。
「忘れないで。皆貴方の事を応援してるから」
「お母さん、ありがとう」
二人で目に涙を溜めながら最後の挨拶をする。
本当にこれが最後。
何となく分かってしまった私は、この手を離すのが惜しくなる。
もう会えない、大好きな人たち。
「じゃあ、行ってきます」
「行ってらっしゃい、名前」
母の手をそっと離すと、周りの光景が光に包まれていく。
最後に母が微笑んだのが見えた。
私はその姿を目を見開いて、目に焼き付けた。
―――――――――――――――
重い瞼を開けた先には、知らない天井。
なんてことは無かった、よく知る蝶屋敷の天井だった。
私、死んだはずでは?と若干混乱しながら首だけを横にずらすと、私のベッドの横に良く知る金髪がウジウジと泣いていた。
泣きすぎて私が目を覚ましている事に気付いていない。
「名前ちゃあん……起きてよぉおお…ぶぇ…」と気味の悪い声を上げている。
「起きましたけど」
身体に激痛が走ったので、動かしはしないが、声だけ掛けてやった。
するとまるで幽霊でも見たような顔でこちらを見て、そして
「うぎゃぁあぁ!!起きたぁぁぁ!!」
と馬鹿でかい声で叫ぶ善逸さん。
その顔はこの世の物とは思えない程、汚い(涙と鼻水とか)。
その様子だと私は死ななかったみたい。
布団をちょっとだけめくって自分の身体を見ると、傷の部分に包帯が巻かれていた。
でも若干貧血っぽいから起きるのは無理かな。
「体調は!?どこか辛い所とか無いの!?何か欲しいものとか!!」
そのままの顔でずいっと私に寄ってくる善逸さん。
私はその顔に引きつつ「大丈夫ですから」と答えるのに必死だ。
「本当に、」
「はい?」
善逸さんが私の頬に手を当てて言う。
「本当に、良かった…」
私の頬に善逸さんの涙が落ちる。
あぁ、心配させてしまった。
この泣き虫馬鹿金髪は人の心配ばかりして。
思わず小さく笑ってしまった。
「心配させてごめんなさい」
「いや、俺の所為で、名前ちゃんは…」
「善逸さんの所為ではないですよ」
「俺の所為だよ!」
「うるっさいですね。病人に吠えないで下さい」
「………」
善逸さんを黙らせる事に成功した私は、善逸さんに微笑んで口を開いた。
「私、どれくらい寝てました?」
「4日」
「4日!?」
善逸さんの言葉に思わず声を上げてしまった。
その割には私、元気だよね?
あ、でも身体全然動かないわ。
「もっと早く起きてよ…」
俺の心臓が持たないよ、と俯く善逸さん。
その頭を撫でてあげたいけど、腕も痛くて持ち上げられないんだよね。
「ごめんなさい、ちょっと里帰りしてたら遅くなっちゃいました」
「里帰り?」
ぽかんとした顔の善逸さんを見て、私は満足する。
「今度、カレー作ってあげますね」