77. あーん




残念ながら、2人の世界は長くは続かなかった。
善逸さんが走りながら、小さい声で「あ」と口にしたので、私も前方に顔を向ける。
遠くの方から大きく手を振る影が見えた。

肩に大きな荷物を乗せた炭治郎さんの姿だった。

「あ、炭治郎さん!」

善逸さんは炭治郎さんの前で急停止し、その場で足踏みをして如何にも、急いでますよといった風に装う。
炭治郎さんは首を傾げたけれど、いつもの優しい笑顔で「善逸、名前!」と声を掛けてくれた。

「久しぶりですね、炭治郎さん。お怪我はすっかり良くなりましたか?」
「あぁ、もう稽古に参加出来るくらいに復活したよ。善逸と名前は何をしているんだ?」
「いいから、炭治郎そこを退いてくれぇえ!! 追っ手が、追っ手来る前に俺たちは逃げなくちゃならないんだよぉお!!」
「…逃げなくちゃならないのは善逸さんだけです」

善逸さんの腕から下ろして貰えない私は、為す術がないけれど、罪を犯しているのは善逸さんだけである。
私も一緒に共犯者にしないでもらいたい。

「どうしたんだ?何があった?」
「説明は後で、とりあえず逃げる!」

不思議そうに私と善逸さんの顔を交互に見る炭治郎さん。
炭治郎さんからしたら、何がなんだか分からないよね。
はあ、と呆れたため息が零れた。

その時、後ろからザリ、という足音が聞こえた。
同時に目の前の炭治郎さんの視線も後ろへ。
そして、私の頭の上からは「ヒッ」という、小さな悲鳴が聞こえた。
何となくだけど察した。

善逸さんの身体が誰かに掴まれ、そして。


「俺から逃げるとはいい度胸してんなァ」


後ろから聞こえた邪悪な声に、やっぱりとまたため息を零したのだった。
声の主、不死川さんは善逸さんの頭を片手で力いっぱい掴んでいる。
ギシギシと頭から聞こえるはずのない擬音が私まで聞こえた。
完全に善逸さんは停止していた。

「ギヤァァァァァ!! 助けてぇぇぇ!!」
「…はぁ」

善逸さんは遅れて泣き叫ぶけれど、もう遅い。
ちらりと善逸さんの後ろに目をやると、おどろおどろしいオーラを纏った不死川さんが、善逸さんに笑っていた。
邪悪な笑みで。

「選べェ、訓練に戻るか、俺に殺されるかァ」
「勘弁してェエエエエ!!」

耳元で叫ばれた声に、軽く顔を歪ませていたら、善逸さんが私を強く抱き締めた。
痛い、痛い痛い!!藁にもすがる思いで反射的に、力を込めたのだろうけど、そのまま抱き潰されるのではないかと思うくらい痛い。

「ぜ、善逸っ、名前を離すんだ…!つ、潰れてしまう!」
「た、たすけて…」

そんな私の様子に気づいた炭治郎さんが、慌てて善逸さんの手を解こうと必死だ。
苦し紛れの声を出して、精一杯助けを求める。

「あ?」

不死川さんはどうやら、私の存在に気づいてなかったらしい。
善逸さんの首根っこを掴み、ブランブランさせ、私を振り落とそうとする。

「ヒィイイッ!!」
「わぁっ」

そこで初めて私は善逸さんの腕から解き放たれた。
炭治郎さんが私を抱き留めてくれて、無事に地に足を着くことが出来た。
なんて事をしてくれる、この金髪め。

「うるっせぇ」
「ぎゃっ」

その間に善逸さんの首に向かって手刀を繰り出す不死川さん。
汚い声を小さく上げ、そのままバタンと善逸さんは倒れてしまった。
可哀想だけど、完全な自業自得である。
しゃがみ込んで、地面に這いつくばっている善逸さんの頭をツンツンとつついてやった。

「運べ」

不死川さんは炭治郎さんにそう言って踵を返した。
炭治郎さんの荷物を私が預かり、のびてしまった善逸さんを炭治郎さんが背負ってくれる。

「本当にすみません…」
「いや、いいんだ。善逸と一緒に稽古を頑張るよ」
「本当に、本当に助かります」

炭治郎さんの横を歩きながら、何度もお礼を言う。
かくして、善逸さんとの逃避行はこれでお終い。

まあ、ちょっと楽しかったかな。
さっきまでの出来事を思い出しながら、ふふと笑みを浮かべた。

ーーーーーーーーーー


すぐに舞い戻ってきた不死川邸。
まだ善逸さんはのびたままなので、ついてそこそこに炭治郎さんが不死川さんのお相手を務める。
私は柄杓で掬った水を善逸さんの顔の上に垂らした。

「っぶえ、べぇっ」

鼻やら口やらに水が入って驚いたのかもしれない。
あっという間に、 善逸さんは飛び起きぜーはーぜーはーと荒い呼吸を繰り返した。
状況を理解してきさいない視線が私を捉え、そして横で死闘を繰り広げる不死川さんと炭治郎さんを捉え、そしてまた私に視線が戻ってきた。

「…嘘でしょ?」
「おはようございます。炭治郎さんの次は善逸さんですよ」
「嘘でしょぉおお!!」

善逸さんの悲痛な表情を見ると同情するけども。
仕方ないよ、善逸さん。
あとで休憩貰えたら、果物でも切って持ってきますから。
何も言わないで善逸さんの肩をポンポンと叩くと、全てを察した善逸さんの顔色が黒くなった。



「…終いだ。厠へ行く。待ってろ」


あれから、炭治郎さんと善逸さんを見事にボコボコにした不死川さんは、やっとその手を止めた。
ぶっきらぼうに言い放ち、屋敷の中へ消えていく。

その間に私は死屍累々となった皆様に駆け寄り、顔にそっと水を垂らしていく。
不死川さんの所にいるから、何だか皆さんへの扱いが雑になってきた気がする。
誰よりも先に目を覚ました炭治さんの顔が、今までに見た事がない造形になっていた。
吉原のときに酷い化粧をされた炭治郎さんを見た時と違った印象で、例えるならアンパンのヒーローと言ったところだろうか。
可哀想なくらい腫れ上がった顔にそっと手ぬぐいを渡す。

「ありがとう…名前」
「いえいえ。それよりも酷くなる前に顔を冷やされた方がいいですよ?」
「そうだな。ちょっと顔を洗ってくる」
「行ってらっしゃい」

他の隊士の方もそれぞれ何とか起き上がり、頭をガクっと落としている。
もう何日もこの調子じゃ大変だよね。
私は横に持ってきていた籠からリンゴを取り出した。

縁側に腰を下ろして、するするとリンゴの皮を剥いていく。
うさぎの形をしたリンゴを一欠片、一人一人に渡した。

「いつも思うけど、器用だね」

いつの間にか起きていた善逸さんが、私の前にやってくる。
物珍しそうに私の手元を覗き込み、私の隣へ。

「善逸さんが好きそうなので」

おにぎり然り。
女子が好みそうなの、好きでしょ善逸さん。

「俺は名前ちゃんの作るものなら何でも好きだよ」
「本当ですかぁ?」
「ほんとほんと」
「調子良いんだから」

そんな善逸さんの一言で、嬉しくなってしまう私は相当なものだけど。
隣に座る善逸さんが、間隔を無くすように近づいてくる。
私は切り終えたリンゴの一欠片を、善逸さんの口元へと持っていく。

「あーん」
「…あ、あーん…」

前は嫌がっていたのに。
素直にあーんをさせてくれるようになった。
ちょっと照れているけれど。
そういう所が好きだったりする。

善逸さんがもぐもぐと口を動かすのを、ニコニコ眺めていた。

皆でシャクシャクとリンゴを頬張る穏やかな時間は、障子の倒れる音ともに終わりを告げた。



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