80. 醒めない悪夢


手紙は藤乃さんから届いたものだった。
きっと冗談。
だって、そんなはずない。
獪岳が鬼になって、旦那様が切腹したなんて。

今まで悪夢は何度か見てきた。
きっとこれも夢だ。
この前まで、笑ってたんだもの。

善逸さんと久しぶりに稽古をして、あんなに嬉しそうにしてたんだもん。
私がおじいちゃん、と呼んだ時、頬を染めて喜んでくれたもん。

「信じないっ…だって、だって」

善逸さんの肩にに爪を立てる勢いで掴んでしまう。
もう一度善逸さんの目を見てそう言うと、虚空が見えた。

「事実だよ、じいちゃんは死んだ」

ぽつりと宙に解き放たれたセリフ。
それは私の心臓を傷めつけ、最終的には涙となって零れ落ちる。
脳裏に浮かんだあの笑顔はもう見る事が出来ない。
そんなことって…。

乱暴に袖で涙を拭う。
私が泣いて良いはずない。
だって、私より泣くべき人がここにいる。
それなのに、当の本人は泣きもせずに私の身体を軽く支えている。
どんなに拭っても止まることのない涙。
瞼を強く擦ろうとする手を、善逸さんを手が止めた。

「…なんで…っ? どうして、旦那様が…?」

縋りつくように喚き散らした。
善逸さんの目がすっと細められ、そして私の頬に手を添えた。

「雷の呼吸の使い手から、鬼を出したからだよ。その責任を取って、じいちゃんは腹を斬った」
「なんで…旦那さまは、悪くない、のにっ…そんなの、おかしい!」
「それが育手の責任の取り方なんだ」

淡々と告げられる言葉に、反論したいのに何も言えなくなってしまった。
あの屋敷で過ごした間に嫌と言うほど、育手であることの意味を理解していたからだ。
弟子達に何かあれば、全ての責任を負う。
その覚悟で皆さんを指導していたんだ。
それを、私は良く知っている。

獪岳は嫌いだった。
最初からずっと嫌いだった。
相手も私の事を嫌いだったと思う。
でも、それでも鬼になんてなって欲しくはなかった。
私は嫌いだけど、私の知らない所で獪岳なりの幸せを見つけているんだと思っていた。

獪岳は、幸せじゃなかったの?
あの屋敷で過ごした日々は。

楽しそうにはしていなかったけれど、あんなに穏やかな毎日を過ごして、
素敵な育手に恵まれて。弟弟子にはちょっと困っていたと思うけれど、悪くない日常だった筈でしょう?
先生と慕っていたじゃない。じいちゃんと馴れ馴れしく呼ぶ善逸さんに怒っていたじゃない。
なのに、なんで…?
なんで恩を仇で返すようなことをしたの?

こんなことならもっと、獪岳のことを気にかけておけばよかった。
いくら嫌いでも、鬼になるよりずっとマシだった。


「…いつかあの屋敷に、戻れると思っていたのに」


もう全てが泡となって消えた。
大好きな人も、善逸さんの大切な兄弟子も。
皆で過ごした日々も。

頬に添えられた手の上から、手を重ねた。
手が震えている事が分かったからだ。
一番、つらいのはこの人なのに。
それを耐えて私を包み込んでいる。
優しいのは今に始まった事じゃないけれど、今回ばかりはずるいよ。

「…今は、泣けないや」

私の音で考えている事が分かったんだろう。
言葉通り、涙一滴も零さない姿に胸が苦しくなる。
泣けないなら、せめて。

「せめて、強く抱きしめて下さい」

きっと気持ちの行き先が必要だろうから。

ぐ、と善逸さんが唇を噛む。
そして、間髪入れずに私をぎゅっと抱きしめた。
痛いくらい。

苦しみを感じながらも、善逸さんの背中に手を回した。

抱き締めている身体も震えている。
涙は出ないけれど、ココロが泣いている。
それが分かって、私も力の限り抱き締め返した。


「私が…獪岳を殺します」


私が呟いた声に善逸さんがビクリと反応する。
力の差は歴然だろうし、敵う筈がないことは分かっているけれど、
善逸さんにそれをさせる訳にはいかないのだ。
師匠が死に、兄弟子が鬼となってしまったこの人に。
何の関係もない、私が殺すしか。

善逸さんにそんな苦しい事をさせたくない。

善逸さんは何も言わなかった。
ただ私の身体が軋むくらい、抱き締めてくれた。


獪岳が良い人を旦那様と善逸さんに紹介するという、夢を見た事があった。
その時はありえない事だと、起きて鼻で笑ったけれど。
そんないつかが、きっとあるだろうと思っていた。
旦那様が喜び、善逸さんが羨ましくて喚き散らす光景が見れると。


そんな夢は儚く散り、現実は悪夢よりも酷いものだったけど。



―――――――――――――――


善逸さんはあの後、私を抱き上げて悲鳴嶼さんの屋敷へ連れて行ってくれた。
痛みは全然感じなかったけれど、足が相当ひどい事になっていたからだ。
善逸さんに運んでもらっている間も、私達は一言も話すことなかった。

縁側にそっと座らされ、何も言わずに立ち去ろうとする後ろ姿に手を伸ばした。

背中から抱きしめるように腕を回すと、善逸さんがすぐに振り返った。

「じいちゃんは、俺たちと居て幸せだったかな」
「……きっと」
「一人で逝くことなんて、ないのにさ」
「心配させたくなかったんですね」

ふう、と息を吐く。

「俺は、じいちゃんが大好きだったよ」
「私もですよ」
「…そうだね」

善逸さんの顔が上げられて、ふう、と息を吐いた。

「…俺は俺のやるべき事をするよ」

善逸さんが続ける。


「だから、名前ちゃんは…名前は俺の前から居なくならないで」


頼むから。

今度は私に縋りつくように掠れた声を上げる善逸さん。
それに応えるように腕に力を込めた。

ゆっくり離れる身体。
そして、善逸さんは一度私を見るとそのまま稽古場へと走り出して行った。

私はその背中が見えなくなっても、ずっと立っていた。



< >

<トップページへ>