82. 獪岳


名前ちゃんと宇髄さんから別れてすぐに、俺は自分が走っていた山道ではなくて、まるで異空間のような場所に落とされている感覚へ陥った。
そうなる寸前に、変な物音がしたと感じたから、鬼の仕業かもしれない。
こちらとしては願ってもない事だけれど。

気が付いた時には障子と襖に囲まれた場所。
四方に部屋が広がり、天井を走っているのか壁を走っているのか分からない。
まるで昔任務で行った、鼓の鬼の家のようだと思った。
闇雲に目の前の道を走り続けていると、微かに俺の耳が反応する。
良く知っているような、どこか不快な。
すうっと息を吸い、耳を研ぎ澄ませる。

アイツが、いる。

「許さない。絶対に」

俺は更に加速し、音の方向へ一直線に走っていく。
どんどん近付いていく音に、俺の心臓も冷えていく。
どこか冷静になっていく自分に感謝しながら、とうとう、その襖の前で俺は立ち止まった。

「いるんだろ、出てこい。そこにいるのは分かってる」

ぴしゃり閉じている襖に向かって言い放った。
実際に見るまで、間違いであってほしいと寸前まで思っていた。
だが、ゆっくり開かれた襖の先に居たものを見て、そんな幻想はあっけなく打ち砕かれてしまった。

…よぉ、獪岳。

「口の利き方がなってねぇぞ。兄弟子に向かって。少しはマシになったようだが…」

襖に手をかけている手から、黒い爪が鋭く長く突き出ている。
完全に身体が俺の前に現れた時、俺の据わった目が鬼となった獪岳を捉えた。


「相変わらず貧相な風体をしてやがる。久しぶりだなァ、善逸。今日はあの小娘はいないのか?」


自身の背中に携えた日輪刀。
そして未だに人間の時の面影を残す姿に、ギリと奥歯を噛んだ。
鬼だ。音も、見た目も。何もかも。

「…やっぱり、置いて来て正解だった。獪岳、鬼になったお前を、俺はもう兄弟子とは思わない。」

自分の口から出た言葉が、これほど冷たいものだとは思わなかった。
目の前にしても案外冷静で居られることに俺は安堵していた。

「変わってねぇなあ。チビでみすぼらしい、軟弱なまんまでよ」

何が楽しいのか知らないが、獪岳が口元を歪めつつ俺を見る。
その目には「上弦 陸」と刻まれていた。
クソが。

「柱にはなれたのかよ? 壱の型以外、使えるようになったか? …ああそうだ、あの娘とまぐわったか? なあ、善逸」

ピクリと俺の眉が痙攣する。
どれだけ煽られようとも、俺の心はまるで静寂だ。


「適当な穴埋めで上弦の下っぱに入れたのが、随分嬉しいようだな」


昔では考えられない。
獪岳に対してこんなに冷たく、まるでどうでもいいモノのように言うなんて。
少なくとも俺は鬼になるまで獪岳を、どうでもいい奴だとは思った事が無かった。

「へぇ、ハハッ!! 言うようになったじゃねぇか、お前」

鋭く尖った犬歯を見せ笑う獪岳。
その顔が吐き気を催すほど気持ち悪い。
こんな、クソが。こいつが、鬼になったから。

「何で、鬼になんかなってんだ?」
「ははっ、お前には…」
「雷の呼吸の継承権を持った奴が、何で鬼になった」

語尾がどんどん強くなる。
感情を出すまいと気を付けていたが、俺には無理なようだ。
怒りが頭を制御し始める。


「アンタが鬼になったせいで、爺ちゃんは腹切って死んだ!!」


藤乃さんから来た手紙が脳裏を過る。
どんな、思いだったのか。
どんな、最期だったのか。
爺ちゃんの事を思うだけで頭がはちきれそうだ。

「爺ちゃんは、一人で腹を切ったんだ!!介錯もつけずに」

じりじりと一歩ずつ、獪岳へ近付いていく。
自然と身体が動いていた。

「腹を切った時、誰かに首を落として貰えなきゃ、長い時間苦しんで死ぬことになる」

獪岳から目を逸らさず、俺は声を張り上げた。
自然と零れる涙を拭う事もせずに。

「爺ちゃんは、自分で喉も心臓も突かずに死んだ」

藤乃さんが、少しでも早く自分が気付いていれば、と涙の滲む手紙をよこしたんだ。
1人で逝かせる事は無かった、私も一緒に逝きたかったと。

「雷の呼吸の使い手から、鬼を出したからだぞ!!」
何で鬼になんかなったんだ、獪岳。

俺の思いは獪岳からすると鼻で笑うくらいは価値が無かったようだ。

「知ったことじゃねえよ」

相変わらず吐き気のする笑みを浮かべたまま、続ける。

「だから何だ?悲しめ、悔い改めろってか?俺は俺を評価しない奴なんぞ相手にしない。俺は常に!!どんな時も!!正しく評価する者につく」

ペッと畳の上に唾を吐き、とても楽しそうに御託を並べる。
全てに虫唾が走る。
なんで、どうして、こいつには分からないんだ。
じいちゃんの気持ちも、俺の気持ちも。

「ジジイが苦しんで死んだなら清々するぜ。アレだけ俺が尽くしてやったのに、俺を後継にせずテメェみたいなカスと共同で後継だと?元柱だろうが耄碌したジジイには要はない」

耳障りな高笑いが俺の耳に入る。

「ジジイだけじゃねえ、お前ら他のクソと同じように俺を扱った藤乃もだ。…そういう意味では、あのど貧相な娘は分かりやすかったなァ?最初から俺に怯えて…からかいがいがあったな」

チッ、といつの間にか舌打ちを零していた。
いつの間にか右手に爪が刺さるほど、握り締めていた。
ギチギチと手から聞こえる音と、反射的に笑みを浮かべた俺。
面白くもないのに笑い声が出てくる。

「爺ちゃんは耄碌してねえよ。藤乃さんはお前のことも可愛がってた、名前ちゃんは…」

名前ちゃんはあれ程嫌いなくせに、お前のことを心配してたんだよ。
鬼になったお前のことを。
お前の幸せを願ってたんだ。

なんでわからないんだ?
みんなの気持ちが。
あんなに寄り添ってもらっておきながら、なんで自分から手放したんだ?
俺よりも恵まれた位置にいたくせに。


「俺がカスなら、お前はクズだ。壱ノ型しか使えない俺と、壱ノ型が使えないアンタ。後継に恵まれなかった爺ちゃんが気の毒でならねぇよ」


俺の言葉を理解した獪岳から笑みが消える。
ギリギリと歯の軋む音が響き、ゆっくり獪岳の手が日輪刀にかかる。
ああ、その顔。
お前やっと笑みが消えたな。


「テメェと俺を一緒にすんじゃねえ!!」


ビリビリと空気を伝って響く声。
俺も自分の日輪刀に手を掛けた。


ーーーーーーーー


身体中がだるい。
長い間、ずっと水の中にいたみたいだ。
同じく重い瞼にゆっくり力をかけてみる。

ぼやけた視界が段々色を取り戻していく。
さっきまで自分がいた場所なんかじゃない事は、すぐに分かった。
力の入らない手で自分の体をまさぐっていく。

特に異変はないようだ。
首を動かして自分の状況を把握しようとした。
見慣れぬ天井。
微かに聞こえる障子の向こう側の話し声。
布団に寝かされた私は、身体に力を入れて上半身を起こしてみる。

ズキン、と頭に一瞬痛みが走ったけれど、本当に一瞬だけ。
はらりと流れる自分の長い髪が鬱陶しい。
枕元に見慣れたシュシュがあった。
それを懐かしく思いながら手に取ると、私は自分の髪を適当にまとめ始める。

すうっと大きく息を吸い、そして大きく息を吐いた。
胸が揺れて首元のネックレスが小さく音を立てた。

長い、夢をみていた。
ゆっくり瞼を閉じる。
夢の余韻に浸りながら、ネックレスにぶら下がる石を握った。

覚悟を決めて瞼を開ける。

大丈夫、私はここにいる。

布団から立ち上がり、障子に向かって一直線だ。
外で聞こえる声がどんどん大きくなる。
障子に手を掛け、力を込めて乱雑に開けた。
スパン、と音を立て開いた先には縁側に座る驚いた顔の宇髄さん。
宇髄さんがいる、それを理解して私はやっと安堵した。


「宇髄さん、善逸さんはどこですか?」


私は、貴方に会いに来たのだから。



< >

<トップページへ>