87. 走る


雛鶴さんの手に引かれ、私は走っていた。
私一人じゃとてもじゃないが通れない場所も、雛鶴さんが軽々と私を持ち上げ、飛んでくれた。
女性に抱っこされるのは気持ち的にも落ち着かないが、そうも言ってられない。
比較的走りやすそうな道に下ろされ、また私たちは走り出した。

肺に入る息が冷たく鋭い。
身体を芯から冷たくするような気さえする。
だけども走る事をやめるわけには行かない。

山の上手から見えた街の明かり。
決して街灯等で照らされているわけじゃないのは、見て分かった。
宇髄さんが別れ際言っていた。

『無惨が地上に出てきた。予想よりも位置はずれているようだが、善逸もそこにいる筈だ』

無惨が地上に。
今、隠の人たちが街の住人たちを逃がしているという。
そこが戦場となるだろうと。

雛鶴さんの手を握りながら、私は唇を噛む。
善逸さんが、そこにいる。
分かっているのに私の足は何でこんなにも遅いんだろう。
ずっと、足手まといになんかなりたくなかった。
だけども最後まで私は私のままだ。

「大丈夫、大丈夫だから」

私の気持ちを察してか、前を走る雛鶴さんがそう言う。
ぐっと噛んでいた唇を離して「はい」と呟いた。
私だけがそう・・なんじゃない。みんな、あそこにいる。
だから、私だけがまるで悲劇のヒロインのようにしているわけにはいかない。

「もし…もし、生きて帰れたら、また遊びに行ってもいいですか、雛鶴さん」
「…もしなんて言わないで。絶対、遊びに来てね。二人で」

雛鶴さんと繋いだ手が強く握られる。
生きて帰れる保証なんてない。
それでも、無理かもしれない約束が一つあるだけで、生存意欲は増すと思う。


私の足で何とか山を下る事が出来た。
あとは街まで一本道だ。
田んぼと畑の間に見える道を見ながら、私は口を開く。

「雛鶴さん、後は大丈夫です。まっすぐ行くだけですから」

少しでも早く雛鶴さんを宇髄さんの元へ帰してあげたかった。
戦場からまだ離れているとはいえ、相手は無惨。
この距離でも何があるか分からない。
それに一本道なら迷うこともない、私一人でどうにかなる。
あとは私の足次第。

だけども雛鶴さんは手を握ったまま離そうとしない。
緩く首を振って首だけ振り返った。

「貴女達が、危険を承知で私たちを助けてくれたのよ。恩を返すには丁度いいわ」
「そんなっ…私は何も」
「いいえ、貴女が居たからみんな救われた。戦わなくたって、貴女には貴女の出来る事があるの」
「…雛鶴、さん」

思わず泣きそうになるのを必死に我慢して、私はコクリと頷いた。
本当に、この時代の人達はみんな優しい。
正直雛鶴さんのお陰で私一人走るよりも、数倍早いスピードで街に向かう事が出来た。

段々と近付いてくる爆音に、心臓が張り裂けそうなくらい締め付けられている。
街の入り口に到達した時、爆風で私たちの髪が大きく揺れた。
そこでやっと雛鶴さんは足を止めて、私の手を離してくれた。
くるりと雛鶴さんが向き直り、私の肩を優しく掴む。


「お嫁ちゃん、死んではダメよ。必ず善逸くんを見つけて、二人で一緒に帰ってくるの」
「…はい、絶対に善逸さんは死なしません」
「お嫁ちゃんもよ」
「勿論」


肩の上にある手にそっと自分の手を重ねた。
潤んだ瞳が優しく私を見つめている。
険しい顔の雛鶴さんを安心させたくて、私は不器用にも笑って見せた。


「また、後でお会いしましょう、雛鶴さん」


後で。
この悪夢のような夜が明けた後。
皆と一緒に。

うん、うんと雛鶴さんが頷く。
その姿を私は目に焼き付けて、肩の手をそっと剥がした。

数歩、雛鶴さんが後ろに下がり、私を見て微笑む。
次の瞬間には、私の目の前から雛鶴さんは消えていた。
暫く雛鶴さんの立っていた場所を見つめて、私は大きく息を吸った。
くるりと身体を街に向けて、震えだしそうな足を一歩進める。

怖い。
今までで一番、恐怖が私自身を襲っている。
だけど、進むしかない。だってここに善逸さんがいるのだから。

自然と首元のネックレスに手をやっていた。
神様でも仏さまでも何でもいいから、お願いだから、あの人達をどうか。

そんな私の願いは空しく、これまでで一番大きな衝撃とともに街の中心部にあった建物が崩れた。

「…善逸さんっ!」

足が震えてようがどうしようが。
私はその場から走り出していた。



――――――――――

酷い有様だった。
街は中心部に行くほど崩れている。
前に吉原で上弦の鬼と対峙した時も、こんな有様だったけれど、そもそもここは繁華街。
吉原のような木造の建物ではなくて、コンクリートと鉄筋の建物ばかりだ。
それだけで、無惨の力がどれほど強いのかよくわかる。

コンクリートが崩れる衝撃を、人が受けたら…?

良からぬ想像ばかりに頭が働く。
既に限界を超えた足も自然と中心部に向かって走っていた。
ちらほらとケガをした隠の人が見えて、それから、人だったものも。

目を逸らしたくなる。
だけどその中に見慣れた羽織と髪色の人がいない事を確認して、安堵している私は最低だ。
善逸さん、善逸さんっ…。
息も絶え絶え、どんどん中心に近付いていく。
まだ遠くの方だけれど、人とは違うシルエットの何かが、そこに立っていた。
白髪、長髪。それから背中からは無数の触手のようなものが伸びていて、腕だったところはそれよりも数倍太い化け物のそれだった。
あれが、あれが、無惨…?
鬼の始祖と呼ばれる化け物。
一目で人間じゃない事なんて丸わかりだ。

その向いに立つ人。
ゆっくりとした動作で刀を構え、それからぐっと足を引いて踏み込む。
背中しか見えないその人の羽織が、市松模様であることを確認して私は口を開いた。

「炭治郎さんっ!」

きっと私の声は届いていないだろう。
それでも叫ばずにはいられない。
無惨は炭治郎さんに向かって背中の触手を大きく動かし、攻撃を仕掛けていく。
炭治郎さんはそれを避けつつ、見た事の無い技を出して応戦する。

黙って見ている場合じゃない。

炭治郎さんがいるならば、近くに善逸さんだっているかもしれない。
近くの建物の陰に隠れながら、ゆっくり現場に近付いていく。

「…ぜん、善逸さんっ、どこ!?」

キョロキョロと辺りを見渡して、進み。
そして振り返りながらまた進む。

何度かそれを繰り返した。
ふと視界の淵に金色が見えた気がして、私は足を止めた。
ゆっくり、視線を戻してその姿を捉えた時。
私は爪が食い込むほど手を握っていた。


「善逸さんっ!!」


やっと会えたその人は、体中のあちこちから出血し、コンクリートに打ち付けられた状態で気を失っていた。



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