91. 帰ろう


「えっ?」

その場に居た誰もが疑問の声を上げた。
だけど次の瞬間には目にも止まらぬ速さで、炭治郎さんの腕が目の前の隠の人に伸びる。
ちらりと見えた鋭い爪、それが人の首に触れる前に炭治郎さんの兄弟子さんが隠の人を抱えて私の方向へ飛んでくる。
ズシャア、と音を立ててなだれ込んできた二人は、信じられないといった顔で炭治郎さんを見た。
勿論私もだ、何が起こったのか分からない。
でもポカンと立ち尽くしている時間はなかった。

「何…ええ? 炭治郎?」

炭治郎さんの横に居た他の隠の人が驚き声を上げる。

「なんで?」

炭治郎さんがニヤリ、と笑って隠の人を見た。
口からは大量の涎を零し、血管の浮き出る腕、手のひら。
それから鋭く尖った爪。
どれもこれも、炭治郎さんとは思えない。
私も声を失ったまま、その光景を見つめる。

「離れろーーっ!!」

私の意識は隣にいた兄弟子さんの声で戻ってきた。
だけど遅い。
既に炭治郎さんは近くの隠の人にその腕を振り上げていたのだ。
思わずぎゅっと目を閉じた。

「ギャッ」

途端に聞こえたのは隠の人の断末魔、ではなかった。
恐る恐る瞼を開けると、目に入ったのは陽光から身体を守ろうと腕でカバーする炭治郎さんの姿だった。
素肌の見える箇所はまるで火傷を負ったように焼け爛れていた。

「ギャアアッ」

幼子のようにその場で身体を捩る炭治郎さん。
その間に追い付いた兄弟子さんが、攻撃されそうになった隠の人の前に立つ。
隠の人は呆然と苦しむ炭治郎さんを見つめている。
未だに何が起こったのか、理解が出来ない。

「惚けるな、離れろ!!」
「でも、炭治郎が……」

兄弟子さんの叫ぶ声が響く。
ドクンドクンと胸が鳴る。
嘘だ、嘘。
だって、だって、炭治郎さんは、

次に放たれる言葉を、私は聞きたくない。



「動ける者ーーっ!! 武器を取って集まれーーっ!! 炭治郎が鬼にされた!太陽の下に固定して焼き殺す!!」


ドクン。
このまま心臓が止まってしまいそうだった。
兄弟子さんの言葉を信じたくはない。
だけど、目の前の光景はどう見ても鬼のそれだ。
今まで任務で何度も見てきた、光景。

「うそ、炭治郎さん」

全身が震える。
私は今、悪夢でも見ているのだろうか。
悪夢なんて何度も見ている、慣れていると思っていた。
なのに、こんなこと。

陽の光から逃げようと炭治郎さんが姿勢を低くして駆けだした。
それを兄弟子さんが止めに入る。
日輪刀が炭治郎さんの脇腹を刺したとき、私は唇を噛んでいた。

苦しい声を上げ、炭治郎さんが兄弟子さんの頭を掴む。
顔面にまで火傷が広がる様子はとても痛々しい。
このまま、陽に当たれば、炭治郎さんは…。

ごくりと唾を飲む。

が、想像を超えた光景がさらに目の前に広がる。
炭治郎さんの火傷の侵食が止まったのだ。
兄弟子さんもその光景に驚きを隠せない。

ふと、視界に入ったのは、炭治郎さんのすぐ近くで身体を引きずりながら近寄る伊之助さんの姿だ。
駄目だ、そんな身体でこちらに来ては。

自然と足が動いていた。
私が駆けている間に炭治郎さんの拳が兄弟子さんの頬を掠め、それから大きく兄弟子さんの間合いから抜けた。
まずい、まずいまずい。
そっちには、伊之助さんがいる。

炭治郎さんに気付かれる前に私は伊之助さんの元へたどり着くことが出来た。
ずりずりと移動していた伊之助さんに私は首を横に振って、制止する。

「伊之助さん、だめ、こっちはだめ」
「退け名前! 炭治郎がっ!」

伊之助さんが大声を張り上げて、私をどかそうとする。
けれども退く訳にはいかない。
伊之助さんに炭治郎さんと対峙させるわけにはいかない。
いくら鬼殺隊と言えども、仲間の頸を斬る真似はさせたく無い。
そんな悠長なことを言っている場合ではないと分かっているけれど、どうしても動く事は出来なかった。

「名前、後ろ」

伊之助さんの言葉で私は振り返った。
私の真後ろには炭治郎さんが居た。
ああ、だめ、炭治郎さん。

私が何か口にする前に伊之助さんが私の腕を引く。
そして、伊之助さんの折れた刀を炭治郎さんへ向ける直前。
私と伊之助さんの間に金色の影が割って入り、炭治郎さんの腕を弾き飛ばした。


「……いくら炭治郎でも、名前ちゃんには手出し無用だよ」


頭からはまだ血を流していて、ボロボロになった羽織を纏っているのに。
きっと立っているのもやっとなのに。
ギリと歯を噛みしめて、私の前に立つ、この人。

善逸さんは私の前に腕を広げ、そこに居た。

「善逸、さん」

いつも私を守ってくれる背中が、目の前に。
どんな姿になっても、いつも。
思わず涙が零れ落ちそうになる。

伊之助さんだけじゃない。
善逸さん、貴方にも私はこの場に居てほしくなかった。

ザーッと後ろへ下がる炭治郎さん。
善逸さんと伊之助さんと舐めるように見つめる瞳は、いつもの優しい瞳ではなかった。
本当に、本当に鬼になってしまったの、炭治郎さん。

炭治郎さんが地面を勢いよく踏み込む。
全速力でこちらに駆けてくるのが分かった。
善逸さんが刀を持ち直し、炭治郎さんにゆっくりと視線を合わせる。
隣の伊之助さんも折れた刀を杖のようにして、ふらりと立ち上がる。

いやだ、いやだ。
この人達は戦ってはいけない。
だって、大切な、仲間でしょう?

縋る様に二人を見たけれど、二人は私を見ていなかった。
ただ鬼と化してしまったかつての仲間を、見つめていた。

炭治郎さんが善逸さん達に接近した、その時。

横から飛び出してきた人影がそれを止めた。
私の目の前で、その人の肩を噛む炭治郎さん。
小さな血しぶきが舞う。


「禰豆子、ちゃん…?」


震える声で、炭治郎さんを止めた人物の名を呼ぶ。
炭治郎さんの爪が禰豆子ちゃんの背中に刺さる。
禰豆子ちゃんの羽織が血でにじんでいるのに、痛みで声を上げているのに。
それなのに禰豆子ちゃんは、ぎゅっと炭治郎さんを抱き締めていた。

「お兄ちゃん、ごめんね」

ぽつりと零された言葉を聞いて、涙が止まらない。

「ずっと、私何も分からなくなってて、ごめんなさい。お兄ちゃん独りに全部背負わせたね」

ギリギリと噛みつく力を弱めることのない炭治郎さん。
それを必死で耐える禰豆子ちゃん。

「どうしていつもお兄ちゃんばっかり、苦しいめにあうのかなぁ。どうして一生懸命生きてる優しい人達が、いつもいつも踏みつけにされるのかなぁ」
「禰豆子ちゃん、」

禰豆子ちゃんが静かに泣いていた。
それはどう見ても鬼の禰豆子ちゃんではなかった。
人の、人間に戻った、禰豆子ちゃんだった。

「悔しいよお兄ちゃん、負けないで。あともう少しだよ、鬼になんてなっちゃだめ」

すう、と禰豆子ちゃんが息を吸う。
そして炭治郎さんの頭をポンポンと撫でて。


「帰ろう、ね。家に帰ろう」


更に強く抱き締めた。



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