92. 早く戻ってきて


禰豆子ちゃんの声が私の耳に届いた瞬間、炭治郎さんは雄たけびをあげ、羽織の上から禰豆子ちゃんに掴みかかる。
炭治郎さんの鋭い爪先が禰豆子ちゃんのグサリと刺さっていくのを見て、私は伊之助さんを振り切り駆けだした。

禰豆子ちゃんに刺さった手を掴んで引きはがそうとする私、涙はずっと流れっぱなしだ。
私が駆けてすぐに善逸さんが炭治郎さんの背中から炭治郎さんを止めようと覆いかぶさる。

「炭治郎さんっ、ダメ、禰豆子ちゃんにそんな事しないで!」

視界は涙で歪んでいてちゃんと捉える事は出来ない。
でもそれでも、血のにじむ羽織を見て、勝手に身体が動いていた。

「炭治郎やめろーっ!! 禰豆子ちゃんだぞ、元に戻ってる、人間に戻ってる!」
「やめろーっ!!」

伊之助さんが炭治郎さんの頭を大きく叩く。
伊之助さんも、善逸さんも泣きながら炭治郎さんを止めようと必死だ。

「ガーガー言うな! 禰豆子にケガとかさせんじゃねえ! お前そんな…そんな奴じゃないだろ!!」

伊之助さんの言葉に私はこくこくと頷く。
炭治郎さんは、こんなことしない。
禰豆子ちゃんを助けようと、今まで頑張ってきた炭治郎さんなら。
どんなに力を入れても禰豆子ちゃんの背中から爪を抜くことが出来ない。
私の非力な力では役に立たない。

「炭治郎さん、やめて…たん、」

私に言葉の途中で炭治郎さんはその口を大きく広げ、衝撃波を繰り出した。
私の身体は一瞬のうちに浮き上がり、近くの瓦礫まで弾き飛ばされる。
勿論私だけじゃなくて、伊之助さんも。
瓦礫まで飛ばされたというのに、私の身体はほぼ無傷だ。

瞼を開けてみると、善逸さんが庇う様に私を抱き締めていた。

ゲホッ、と血を吐く善逸さん。
善逸さんが強く瓦礫に身体を打ち付けていたのだ。

「善逸さんっ」

倒れ込むように崩れる身体を支え、私は自分の着物で善逸さんの顔を拭う。
伊之助さんは反対側の瓦礫へ叩きつけられていた。
視界の隅に映る姿が痛々しくて見ていられない。
地面が衝撃で抉れている。
その中心にいたのは、背中から肋骨のような長い触手を数本出した、炭治郎さん。
炭治郎さんに必死にしがみ付く禰豆子ちゃん。
四つん這いで私達を睨みつける姿はどう見ても、人ではなかった。

「お兄ちゃん、負けないで。お兄ちゃん……!」

ギリと歯を固く噛み、荒い呼吸を繰り返す炭治郎さん。
じっと私と善逸さんを睨んで、それからゆらりと背中の触手が揺れた。

「だめ!!」

禰豆子ちゃんの声と同時に触手は素早く私達の方へ向かってくる。
口に付いた血を手首で拭った善逸さんが私を強く抱き締めた。


「水の呼吸 肆ノ型 打ち潮」


私達の前に出たのは炭治郎さんの兄弟子さんだった。
血で染まった羽織を靡かせ、炭治郎さんと同じ水の呼吸の技で触手を弾き飛ばす。
だけど、兄弟子さんの表情は険しい。
それもそうだ。
炭治郎さんが、噛んでしまった。
禰豆子ちゃんを。人を。
その事実が冷たく私たちの上に圧し掛かる。

大きく口を開き、また攻撃を繰り出そうとする炭治郎さん。
それを見て兄弟子さんは刀を構える。
しがみつく禰豆子ちゃんにも分かったのだろう。
必死に泣きながら叫ぶ禰豆子ちゃん。


「誰も殺さないでっ!! お兄ちゃん、お願い、やめてっ!!」


禰豆子ちゃんの悲痛な叫び声。
それと同時に禰豆子ちゃんの手が炭治郎さんの口を覆う様に出された。
途端、炭治郎さんから繰り出される筈だった攻撃はその場で爆発を起こす。

「禰豆子ちゃん!!」

私と善逸さんの声が重なる。
砂ぼこりが止み、その先に居たのは爪が剥がれ、手から血を流す禰豆子ちゃんの姿。
それでも炭治郎さんは止まらない。
四つん這いで一歩前に動こうとするが、禰豆子ちゃんが慌てて背中を掴む。
炭治郎さんの前でいくつも地面が割れる。

「だめ! もう今のやったらだめ!!」

「禰豆子ちゃんっ、禰豆子ちゃん!!」

私が禰豆子ちゃんに駆けだそうとするのを、善逸さんは許してくれなかった。
炭治郎さんと禰豆子ちゃんに向かって私の細い腕が伸びる。

なんで、どうして、神様。
誰よりもつらい目にあったこの家族を、どうしてここまで酷い事をするの。
この人たちが何をしたっていうの。
これ以上、どうして。

炭治郎さんと禰豆子ちゃんを見つめ、私は表情を歪めた。

その時、気付いた。
炭治郎さんと禰豆子ちゃんの後ろからよろよろ近付く影に。
視線を炭治郎さんたちから私は後ろの人物へ向ける。

ああ、だめだよ。

「炭治郎、禰豆子ちゃん」

ふらふらしても、必死に一歩ずつ前に進む、カナヲちゃん。

「カナヲちゃん、来ちゃだめぇえ!!」

私の声を聞いて、止まってくれる事を願った。
でもカナヲちゃんは穏やかに私に向かって微笑み、それから自分の胸ポケットから何かを取り出す。

何を、何をするつもりなの?
私はただ叫ぶことしかできない。
誰か、カナヲちゃんを、


「私の目を片方残してくれたのは、このためだったんだね、姉さん」


カナヲちゃんのか細い声が私まで聞こえた。
大きく息を吸って、それから歯を食いしばるカナヲちゃん。


「花の呼吸 終ノ型 彼岸朱眼」


カナヲちゃんの纏う雰囲気が変わった。
炭治郎さんに向かって駆けだす。
炭治郎さんの目がカナヲちゃんに気付いたときには、既に至近距離に居た。
カナヲちゃんの肩にかけて炭治郎さんの爪が刃が刺さる。
私は悲鳴を上げていた。
カナヲちゃんの身体が宙を舞う。その際に炭治郎さんの腹には何かが刺さっていた。


「炭治郎、だめだよ。早く戻ってきて。禰豆子ちゃんを泣かせたら、だめだよ」


ドサ、と鈍い音を立てて、カナヲちゃんの身体が地面へ落下する。

「いやぁあああッ!!」

自分の叫び声が耳に入って耳障りだ、と感じる間もなかった。
ぴくりともしないカナヲちゃん。
トドメを刺される、と周りに居た皆が警戒し始めた。

が、炭治郎さんはその場に棒立ちし、完全に動きを止めていた。


「炭治郎…?」


善逸さんの声でやっと私は我に返った。



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