06

名前が来なくなって何日経っただろう。
最後に会った時は雨が降っていて、傘を渡すとぎこちなく微笑みながら「またね」と言っていた顔が思い出される。
学校では、名前が来なくなった事を知った善逸が「俺の所為?俺の所為?」と慌てふためいていたけど。
善逸の所為じゃない、だって名前の匂いは…俺に対して動揺している事を示していたから。

俺が、何かしたんだろうか。
名前にとって、嫌な事を。
これまでの事を思い出しても、残念ながらそれらしいことは思い浮かばない。

確かに傘は返さなくていい、と言った。
それは、善逸と話している時の名前の様子がいつもと大きく違っていて、匂いが急に変化したからだ。
男として、長男として、本当に情けないが、嫉妬だとよくわかる。
その匂いは俺と一緒にいる時には嗅いだことのない匂いだった。
匂いを出している相手が善逸だと知って、俺も酷く動揺した。
思ってもない事を言うくらいには。

傘なんてどうでもいいけど、名前なら傘を返しに来てくれる、と。
またパンを買いに来てくれる。
また、俺に会いに…。

いや、俺に会いに来ているわけではないんだ。

そんな事は分かっている筈なのに。

名前の匂いはとても幸せそうで、パンを頬張っている時にそれはよくわかる。
まるで俺が名前に好かれていると勘違いするくらいに。

それを善逸と伊之助に相談すると「え、嘘…知らなかったの?」と驚愕していた。
どういう意味かと尋ねても教えてはくれなかった。
伊之助は「天ぷらを置いたらまた来るんじゃねぇか」と言っていたけど、そうなのだろうか?

名前が来なくなってから、禰豆子が心配そうな顔を良く見せるようになった。
禰豆子も名前に会えなくて寂しいだろう、と思っていた。
だけど、禰豆子は「寂しいけど…お兄ちゃんの方がつらそうだよ」と言った。

「俺が…?」
「自分で気づいていないの? 今にも死にそうな顔してる」

禰豆子が背伸びをして、俺の頭を撫でる。

「常連さんが来なくなるのは、寂しいからな」
「違うでしょ。名前ちゃんだから、でしょ」

禰豆子に指摘され、俺はズキンと胸が痛んだ。
妹にまで気付かれていたとは。

俺は無理やり笑顔を作って「そうだな」と言った。
それを見て禰豆子が目を細める。

うちのパンを選んでいる姿は、まるで宝石を見つけた子供のようにキラキラしていて。
愛おしそうにトレーにパンを乗せている所を見るだけで、俺も幸せになれた。
名前の幸せは伝染するんだ。

パンが好きなんだと言っていた。
そう笑う姿が好きだった。
俺だけに見せてくれるとばかり、勘違いしていた。
俺以外にはその顔を見せないで欲しい。
そんな気持ちが生まれて、俺はどうしたらいいのか分からなかった。

俺に対して動揺する名前を見た時「もしかして、俺?」と原因を尋ねたら名前は首を振ったけど、
匂いで分かる。嘘をついていることくらい。
嘘を吐かれたことが悲しいと思うと同時に、俺の所為で名前は何か悩んでいる事実を知って、
俺の心臓が悲鳴を上げていた。


「きっと、何かあったんだよ。またすぐ来てくれるよ?」

禰豆子はそう言って俺を慰めてくれた。
いつまでも女々しくしてはいられない。俺もコクリと頷いて、手元の仕事に集中する。
だけど焼きあがったパンを店頭に並べながら、思い浮かべるのは名前の姿だ。
このパンも、あのパンも、美味しそうに食べる姿。
気が付けばガラスの向こうの道路を見つめてしまう始末。

馬鹿か、俺は。

はあ、とため息と一緒に情けない気持ちまで出てきた。
長男として情けない。
いつまでもこうしてはいられないのに。
ふと顔を上げて、レジへ引っ込もうと考えた。

チラリと最後にガラスの向こうに目をやった時、
店の前の道路の向こう、曲がり角から見える影に俺は目を見開いた。

「禰豆子」
「ん?どうしたの、お兄ちゃん」
「ちょっと、出てくる」

慌てて脱いだエプロンをレジの禰豆子に渡して、俺はガラス戸に触れた。
禰豆子も俺の視線の先を見て、何かを理解したように微笑んだ。

「行ってらっしゃい。後で二人で戻ってきてね」
「あぁ」

カランカランと鳴る鈴を聞きながら、俺は外へ飛び出した。
車が来ないかだけを確認して道路を横切り、影しか見えていない角へ走る。
人違いじゃない、名前の匂いがする。
緊張している匂いもする。
曲がり角から黒い傘がチラリと顔を出した。

失速して俺は角を曲がった。
そこに見えた、小さな肩に触れようとした。
その前に振り返られて、レンズ越しの潤んだ瞳と目が合う。

「た、たんじろ、くん」

名前を呼ばれただけなのに、ドキドキと胸が跳ねる。
思わず抱き着いてしまいそうになる衝動を抑え、俺は口を開いた。

「会いたかった」

どうかこの想いが、彼女に届きますように。