07

友達に背中を押され、今日こそは傘を返しに行こうと決めた。
もしかしたら炭治郎くんたちにすっかり忘れ去られているかもしれない。
それでも顔を見て、傘を返して、直接聞いておきたいと思ったから、この場に立っている。

かまどベーカリーを目の前にして、私の足は歩く事を止めてしまった。
もう目の前だというのに情けない。
バクバクと心拍が上がり、指先も冷たくなっている。
正直、怖い。
車が通過していく音を聞いていても、どこか遠ざかっていくような感覚になる。
折角背中を押してもらったのに。

ちょっと落ち着こう。
お店を背中に向けて、大きく深呼吸をする。
大丈夫、大丈夫。
嫌われていたとしても、炭治郎くんなら態度に出さないし、それでも嫌がられているようだったら、今度こそお店に通うのを辞めればいい。
傘も返さず、何も言わないで行くことを辞めるよりも、その方がすっきりする。
諦めも、つく。

そう思って今度こそ、かまどベーカリーに行こうと向き直ったその時だ。

遠くから走っている足音は聞こえていたんだけど、まさか目の前で止まるなんて思ってもみなくて。
しかも相手が炭治郎くんだなんて、誰が予想しただろう。

え?何で?
走ってきていたから少しだけ荒い呼吸をしているけど、紛れもない炭治郎くんがそこにいた。
何故か私に手を伸ばそうとしていた所だったみたい。

私の顔を見て炭治郎は伸ばしていた手を引っ込めるのかと思いきや、そのまま私の肩に触れた。

「た、たんじろ、くん」

なんとか絞り出すように炭治郎くんを呼ぶと、苦しそうな顔をする炭治郎くん。
あ、その顔だ。この前も、見た。
ズキンと胸が痛んだけど、こんな事でへこたれていてはだめだ。
ぎゅっと傘を持つ手に力を込める。

そんな私に炭治郎くんが口を開いた。


「会いたかった」


バクンバクンと今までで一番ありえない音を立てて、心臓が跳ねた。
言われた言葉の意味なんて、馬鹿でもわかる。
それって、本心、なんだろうか。
ただの社交辞令?

どう反応していいかわからないから、私は下を向きつつ炭治郎くんにそっと傘を渡す。

「こ、これ…返すの遅くなってごめん、なさい」

色々スマートに言えるように頭の中で練習したはずなのに。
残念ながら現実ではあまり役に立たなかったみたい。
どもりながら頑張ってそれだけ言うと、私は一歩後ろへ下がった。
もう駄目だ、炭治郎くんとお話しようと思っていたけど、私にはやっぱり難しいみたい。
知る事の恐怖が今、押し寄せてきて泣きそう。
マストのノルマはクリアしたんだから、取りあえず帰ろう。

だけど、私の肩にある手は離れる事なくて。
むしろ強く掴まれて、私は吃驚してしまった。

「…返してくれてありがとう。あと、ごめん…名前、この後予定はあるかな」
「え、よ、予定?」

炭治郎くんの顔を恐る恐る見ると、やっぱりどこか無理してそうな顔をしていた。
私は首をゆっくり振ると「良かった」と安堵のような声まで聞こえてくる。
どういうことだろう。

「…あ、ちょっと待ってて。傘、片付けてくるから」

そう言って炭治郎くんの手は、やっと離れて行く。
その時に「絶対ここにいてくれ」と念を押されてしまい、私は動けなくなってしまった。
帰ろうとしていたの、バレてた?

たったった、と道路を渡り、店の中へ消えていく炭治郎くん。
ぱちぱちと瞬きを何回か繰り返して、私はそれをただ見ていた。
暫くすると小さな袋を持った炭治郎くんが出てきて、私をみてにっこり微笑んだのだ。

炭治郎くんの笑った顔、久しぶりに見た気がする。


「ここじゃなんだから、行こうか」

私の前に戻ってきた炭治郎くんは、そう言うと私の左手を掴んでそのまま歩き出してしまった。
繋がれた手と炭治郎の頭を交互に見て、私はパニック状態だ。
どどど、どどういうことこれは!
なんで自然に手を繋いでいるの?っていうか、炭治郎くんからなんで?
頬に熱が集中し始めてきた。
いや、頬だけじゃない、繋いでいる手にも熱が籠っている。
汗でべちょべちょだったりしないかな。

繋がれた手の事を聞けなくて、何ならそれの事で頭が一杯で炭治郎についていくまま、私はいつの間にか公園へとやってきていた。
公園は遊具があるスペースとお散歩コースにもなっているベンチのあるスペースとがあり、そのいくつかあるベンチに炭治郎くんが歩いていく。

「ここに座って」

私は言われた通り、ベンチに腰を下ろしたら、その隣に当然のように炭治郎くんも座る。
お店の付近以外で炭治郎くんと過ごすなんて、初めての事だからどうしていいのかわからない。
ちらっと炭治郎くんを見るとばっちり目が合ってしまった。
また私の心臓がバックンバックン鳴り始める。

「突然、ごめん。名前とどうしても話したかったんだ」
「…ううん、いいの…私も、炭治郎くんと話したかったから」

恥ずかしいし、怖いし。
それでも聞かなきゃいけない事はある。
逃げたかったけど、もうこの際聞いてしまおう。

それにしても炭治郎くんの話したいことってなんだろう。
もしかして「もう店に来ないで」とかそう言う事なんだろうか。
そうだとしたら、私は話す事なく黙って帰ろう。

「炭治郎くんから、どうぞ」
「いいのか?」
「う、うん…私のは大したことない、から」

大した事ないのは、炭治郎くんにとって、だけど。
私にとってはとても大事な事だ。

炭治郎くんがすうっと息を吸った。
何か気合を入れているような仕草。
そんな姿も素敵だなと思ってしまう私は、本当に炭治郎くんの事が好きなんだな。
初恋は実らないというし、多少切ない方が思い出にもなる。
心の準備をしておかないと。

緊張と恐怖でバクバクいってる心臓を聞きながら、私は炭治郎くんを見ていた。


「名前」
「は、はい」

急に名前を呼ばれてピシっと背筋が伸びた。
炭治郎くんに名前を呼ばれると緊張しちゃう。

そんな私をよそに炭治郎くんの表情はとても優しかった。

その顔は私が見たかった表情だ。


「名前は、好きな人とかいるのか?」
「……えっ?」


正直、考えていた話題とかけ離れすぎていて、反応に遅れが生じてしまった。
むしろ聞き間違えかと思っている。
けど、真剣な表情の炭治郎くんは優しくもう一度「好きな人」と呟く。
間違いじゃなかった!本当だった!

えっと…どう、答えれば?
まさか、君です!とは言えないし。
返答に困っていると、それに気付いた炭治郎くんがまた口を開く。


「いるんだな?」
「え、っと…うん」


戸惑いながらこくりと頷いた。
炭治郎くんの事だよ。
心の中で何度も名前を呼ぶ私。
でも、それは言えない。



「…そうか」



くすっと笑う炭治郎くん。
笑っているのに、その顔は私は見たくなかった。
だって、今にも泣きそうな、苦しそうな、そんな顔だったんだもの。

ねえ、炭治郎くん、どうして…?


「だとしたら、俺が今から言う言葉はただの独り言だと思って聞いて欲しい。言うべきではないかもしれないけど、俺は名前に聞いて欲しいから」

「…き、きくよ。炭治郎くんの言葉、ちゃんと聞くから」


だから、そんな顔見せないで。
私なんかで良かったら、ずっと聞くから。

私は何を言われてもいい。
でも、炭治郎くんはそんな顔、しないで欲しい。

ごくりと唾を飲んで、眼鏡をそっと掛けなおした。



「…名前が店に来てくれるようになってから、俺は勘違いするようになったんだ」
「勘違い?」

炭治郎くんの言葉に首を傾けて尋ねる。
軽く頷いて炭治郎くんは続けた。

「まるで名前が俺の事、好きなんじゃないかって。…馬鹿だと分かってる。自意識過剰だとも。でも、名前の匂いが…幸せで、あったかくて…俺まで幸せになったんだ」
「…っ!!」

思わず口にしてしまいそうだった。
でも寸前で耐えた。
最後まで、聞こう。炭治郎くんが私に伝えてくれる、言葉。

「だから、善逸と話している名前を見て、匂いが…動揺しているのを感じて、俺は気付いたんだ。好きなのは、俺の方だったんだ」

ベンチの上にあった私の手を、そっと炭治郎くんの手が重ねる。



「好きだよ、名前」



切ない顔で笑う炭治郎くんが私を見つめる。
ひゅっと喉の奥が鳴って声が一瞬出なかった。
段々視界も涙で歪み始めてきた。

ああ、私、夢をみているのかな。