お酒を摂取した私の脳はついに幻覚まで見せるようになってしまったのか。
さっきまで茶髪くんが座っていた場所に、いる筈のない男が座っている。
その事実だけで私の脳が正常に機能していないことの証明になるのではないか。

「あ、我妻?」
「よぉ」

幻覚だと思われる男に声を掛けると、返事が返ってきた。
どうやら幻覚ではないみたい。
気まずそうな顔に顔を逸らしていたのに、急に私の目を見つめてくるから思わずドキっと心臓が跳ねた。

「なんで? 茶髪くんは?」

確か目を閉じる前にここにいたのは茶髪君だった筈だ。
我妻と話すのは勿論気まずいけれど、お酒の力も相まって前ほど気まずくはない。不思議。

「戻った」

あっさりそう言われると、あ、そう、としか言えない。
戻るのはわかるよ、でも何であんたがいるの?
泥酔した人をトイレまで運んでくれた人が黙って戻るはずないと思うので、何かしら連絡を残してるのかもしれない。
ポケットに入れっぱなしだったスマホを確認しようとした、けどそれは急に立ち上がった我妻の手によって止められた。

「ねえ、名前」

優しい低く掠れた声。
急に近付いた我妻にドキドキしない訳がない。
スマホを取り出そうとした手をそっと掴むと、私のお腹の前で我妻の手に包まれてしまった。
な、なんだろう。我妻の行動一つ一つがドキドキする。

「俺の都合で申し訳ないんだけど、トイレの前はあれなので移動しませんか…」

凄くドキドキしたけれど、発せられた言葉に拍子抜けした。
さっきまでのドキドキを返せと言うセリフが喉のすぐそこまできていた。

「は?」

ポリポリと頬を指で掻く我妻。
そして優しく包まれた手は所謂恋人繋ぎという繋ぎ方で絡まれて。
吃驚した。吃驚しすぎて繋がれた手を凝視した。
意味がわかんない。何でこんなに優しく手を繋がれているんだろう。
反射的に引っ込めようとしたけど、ぎゅっと握られてそれは叶わなかった。

「何の、つもり」
「嫌なら嫌でいい。だけどできれば付いて来てほしい。本当に嫌なら、これで終わりにするから」
「どういう事?」
「いいから。カバン、持ってきてるよな?」

全然話がかみ合わない。
でも何だか今までで見た事ない我妻の必死そうな表情に、諦めて頷くしかなかった。

これで、終わり。

それは私達の関係を意味しているのだろうか。



我妻は黙って私の半歩前を歩く。
でもその手は固く繋がれたままだ。

いつもどこか余裕ぶっこいている顔の我妻が、真剣に私の目を見て懇願している様はなかなか珍しかった。
私が寝ている間に何があったというのだろう。
…沙耶ちゃんと上手くいった、のかな。
ズンと私の心が音を立てて沈んでいく。

だってあんなに楽しそうにしてたんだもの。
そうなってもおかしくない。
彼女にしたい子が出来たから、この関係は解消。
当然そういうことだろう。
もしかして、もう彼女になったのかもしれない。

いずれにせよ、これから私はやっと我妻に振られることが出来る。
長いようであっという間の片思い。
潔く散る準備はとうの昔に出来ている。

何も言わない我妻の背中を眺めて、私はこれが最後になるかもしれない、とぎゅっと手を握り返した。


―――――――――――


連れて来られたのは、我妻の家だった。
勿論、家に行く前に「俺の家に連れて行くけど、いい?」と了承を取ってくれたので、覚悟して中へ入った。
意外とそういう所はキッチリしているんだなと思ったけれど、彼女がいる身で彼女でもない女の家に連れ込むのは如何なものか。
あ、まだ彼女じゃないのかな。
どちらにしてもあんまりよくはない、よね。

話が済んだらさっさと帰ろう。

そう決めて、我妻の部屋のソファに腰を下ろした。

あの日、以来。
我妻の部屋には来ていなかった。
いつも私の部屋に我妻が来てくれていたからだけど。
この部屋にいるとあの日を思い出す。

まあ、この部屋で始まったんだから、終わるのもこの部屋で、という事かな。


私がどうでもいいような事を考えている間。
我妻は私の向かいに座ろうとしていたけど、きゅっと唇を噛んだと思ったらまた私の隣に腰を下ろした。
真剣な目で見つめられて、私はごくりと唾を飲み込む。
素直にかっこいいと思ってしまった。
もう振られるのに。

「俺の話、聞いてくれる?」

我妻の声がちょっと震えている気がした。
本当に嫌っている人に嫌いだ、と伝えることはとても難しい。
何となくそれが分かってしまって、大丈夫だよの意味を込めて我妻の手を取った。



「今度は我妻が愚痴る番だよ」



いつも私の話を面白おかしく聞いてくれたんだから、私だって我妻の話を聞かなければならない。
それが自分にとって悲しい現実であったとしても、平気。
今が1番、好きな人に近づいた瞬間だと思う。
この後我妻とどんな仲になっても、この瞬間を忘れない。
私の少しだけの幸せ。

我妻は私の手を見つめて、そしてやっと口を開いた。


「俺、ずっと名前に言ってないことあった」
「うん」
「…俺ね、ずっと名前の事、友達だなんて思ってなかった」
「…うん」

ズキズキと心臓が痛む。
想像以上に我妻の言葉は凶器だ。
本当なら耳を塞いでしまいたい衝動に駆られるけど、それはしない。
平気な顔で何だったら嘘くさい笑みだって見せてあげる。
それが振られる女の最後のプライド。


「友達でなんかで居たくなかった。なんでだと思う?」


少し目を細めて我妻が尋ねる。
私の手に力が籠る。


「私が、嫌いだから?」


分かっていても自分で言うのは勇気がいる。
きっと笑みなんて歪んでしまっているだろう。

我妻は私の言葉を聞いてフルフルと首を横に振った。


「名前を、俺のものにしたかったんだよ」


静かに発せられた声に、私は今、どんな顔をしてるんだろう。


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