「あぁ、苗字、また飲みに行かないか?」
「いえ、結構」

掛けられた言葉にパソコンから目を逸らさず返すと、声の主はくっく、と気味悪く笑った。
定時は17時。それを過ぎると派遣の方は皆帰宅し、社員もちらほら帰っていく。
現在は18時半。そんな時間にもなれば事務所に残っている人間なんて数える程だ。
残業が少ない会社で良かった、と心の底から思うけど。

あと少しで業務が終わる、という所。
そのタイミングでコイツは私の隣のデスクに座り、わざわざ私に声を掛けてきた。
隣の部署のコイツに。
同期の中でも頭一つ抜き出ている、優秀な男である。
少なくとも、先日まではそう思っていた。
私のネタを取られるまでは。

同期の冴島は椅子に深く腰を掛け、こちらを見ている。
対して私は一切関知せず、目の前の業務を終わらせる事に専念する。
さっさとどこかへ行け。

「つれないなぁ。あ、この前は本当にありがとう。お蔭で良い会議になったよ」
「お気になさらず」

バンバン嫌味を投げつけてくる冴島に苛立ちが湧いてくるけど、表情には出さない。
コイツに捕まるくらいなら、もう残業もしない方がいい。
くそが。

「…何だ、もう帰るのか?」
「……」

私がパソコンをシャットダウンしようとしている事に気付く冴島。
本当はもうちょっとやりたかったけど、仕方あるまい。
さっさと帰るに越したことはない。
モニターが暗くなったことを確認して、私は上着を羽織る。
何故か隣の冴島も立ち上がる。

「そんなに冷たくすんなよ。同期だろう?」
「同期じゃなかったら縁を切りたいくらい」
「そう言うなって」

ニヤリと笑う顔に殺意さえ沸く。
カバンを手に持ち、さっさとこの男の横を抜けようとしたけど、本当に何故か私に付いてくる。
事務所を出ても、エレベーターに乗っても。

「何でついてくんの」
「偶にはいいじゃねぇか。駅まで送ってやるよ」
「冗談」

スーツのポケットに手を突っ込んで、私の一歩後ろに立つ冴島。
普通の女性ならそんな事言われたら、喜んでお願いするところかもしれないけど。
生憎私はこの男に対して敵意以外の感情を持ち合わせていないため、ただただ不快なだけだった。
このまま駅まで付いてこられるもの嫌だな。
タクシーを捕まえたところで、コイツも乗ってくるだろうし。

ジロリと冴島を睨むと、冴島は目を細めて私を見ていた。
また私から有益なネタをパクろうとしているんだろう。
残念ながら、私にはもうそんなネタはない。こいつにパクられたお蔭で、やる気も失せた。

エレベーターの扉が開いたので、早々とロビーを抜けて自動ドアから出る。
でも後ろの足音も付いてくるので、余計に不快感が増す。
うざ。

本当にどうしよう。
心の中では何度もこの男をぶん殴っている。
でも、実際そんな事もできない。私は小柄だし、この男から走って逃げても捕まるだろうし。
詰んだ。

はあ、とため息を吐いたその時だ。


「名前、こっちこっち」


聞きなれた声で名前を呼ばれ、私は吃驚して顔を上げた。

視線の先には背広を腕にかけて、カバンを手に持った我妻が立っていたのだ。
ん?なんで?なんで、そこにいるの?
ポカンと口を開けて固まっている私を余所に、後ろで冴島が「知り合いか?」と口を開いた。
慌てて正気に戻り、私は我妻に向かって驚きの声を上げる。

「な、何でここにいるの!?」
「連絡したのに返ってこないから。遅くなるなら連絡くらい寄越してよ。飯に困るじゃん」
「は、はぁぁあ?飯くらい自分で勝手に食べなさいよ!!」

しれっと飯の用意をしてもらおうとしている我妻に、プチ怒りが湧く。
確かにスマホを確認するとウザいくらいに我妻から連絡が来ていた。
丁度、冴島に絡まれ始めたあたりくらいから。

「オイ、お前の男?」

冴島が若干引きつつ、私にそう言う。
忘れてた、コイツがいたんだった。
私は我妻から視線を戻して「友達」とだけ返した。
普段の私からは考えられないくらい冷たく言い放つ姿に、今度は我妻が驚いた顔を見せた。

「会社の人?」
「同期」
「ふーん、どうも。…じゃ、そう言う事で」

一瞬だけ、我妻が冴島に挨拶をして、テクテクと私に歩み寄り、さっさと腕を掴んで歩き出そうとする。
冴島が「お、おい」と声を掛けたけど、我妻も私も無視だ。

我妻に引っ張られながら、駅までの道のりを歩く。
冴島は付いて来てはいなかった。

振り返って冴島がいないことを確認して、安堵の息を漏らす私。
想定外だったけど、我妻が来てくれて良かった。
そう思っていたら、我妻の足が止まった。

「我妻?」

不思議に思って声を掛けたら、めちゃくそ機嫌の悪そうな顔がこちらを見る。

「なぁんで男と一緒に出てくんのかなぁ!?しかも、あんなイケメンとさぁああ!!」

そこそこデカい声で我妻はそう言うと、ギリギリと奥歯を噛んで苛立ちを隠さない。
瞼をぱちぱちして我妻を見たけど「ねえ、何で?何で?答えるまで何度も聞くけど?」とブツブツ言うだけ。

「ただの同期だって」
「ただのイケメン同期と何故、一緒に帰ろうとしてるわけ?」
「付いてこられてたの」
「……ふーん」

私の説明では全然納得していないような顔で、目を細める我妻。
何で我妻が執拗に尋ねてくるのかわからないけど、正直私は助かった。
それだけはお礼を言っておこうかな。



「我妻が外に居てくれて良かった。どうやって振り切ろうかと思ってたから。ありがとう」



我妻の目を見て言うと、我妻は一瞬目を見開いて頬をほんのり赤く染める。

「む、迎えに来ただけだし? 何だったらこれからも迎えに来てあげるけど?」

プイっと顔を逸らして言ってるけど、耳が若干赤いのが私から確認できた。
その様子にくすっと笑ってしまった。

「いや、迎えは勘弁して」
「はぁああ? 人が心配して言ってんのに!?」
「だってアンタ、目立つじゃん。それに…」

一呼吸おいて、我妻の顔を覗き込むようにして顔を見る。
戸惑いながら我妻が「何?」と尋ねてきた。



「なんもない」




私は冴島より我妻の方がイケメンだと思うよ。


と思ったけど、調子に乗るから口に出すのは止めた。


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