19. お母さん


とても大事そうにシュシュを見る名前ちゃんの目を見ていると、あの本に書かれてない物語が沢山あったのだと理解した。
大好きな人の羽織って、もう一人しかいないじゃん。
どんだけ想われてるわけ?
俺の入る隙なんて、分かってはいたけど全然ないじゃん。

ズキズキと心臓が痛む。
この娘をひいじいちゃんの元へ帰してあげたいと思う。
だけど、真逆の事を囁く自分もいる。
複雑な気持ちに俺は、自分を押し殺して口を開いた。

「それ、名前ちゃんが持っておけば?名前ちゃんのなんでしょ?」

喜ぶと思った。
だって、こんなに大切にシュシュを見つめているんだから。
だけど名前ちゃんは緩く首を振った。

「これは、禰豆子ちゃんのものです。私が作って一時付けていたとはいえ、ね」
「…え…まあ、そうだけど」

はい、と俺の手に返されるシュシュ。
未練たっぷりの顔してるのに。
でもこれ以上俺が言える訳ない。こくりと頷いて俺はシュシュを元のポケットに収納した。

「あ、丁度いい。私も善照さんに相談したい事、あったんです」

話を切り替えるように、ポンと両手を叩く名前ちゃん。
ちらりと近くにあった時計を見ると、結構キツイ時間だった。
まだ昼飯も食べてない状態で話し続けるには時間が足りない。


「相談したいのはわかったけど、ちょっと時間が足りないね。放課後、俺の家に来ない?」


言った後にしまったと思った。
名前ちゃんの顔がぽかんと固まったからだ。
そして、困ったように眉を下げて「嫌です」と断られる。

考えてみれば当たり前だ。
“俺”の家。
それはつまり、ひいじいちゃんの家でもある。
名前ちゃんがいくらひいじいちゃんに会いたい、戻りたいと思っても、
禰豆子さんと結婚したじいちゃんが暮らした家に来たいなんて、思う筈がない。
完全に失敗した。

「ごめん」

俯きながらぽつりとそう言うと、名前ちゃんは明るく「いーえ」と笑った。
本当は嫌な気持ちになったはずなのに。
はあ、と心の中でため息を吐いた。

「善照さんの家は嫌ですけど、私の家はどうですか?」

その次に名前ちゃんから言われた言葉に、俺は驚愕した。
え、え?
今この娘、なんて言った?

俯いていた顔を上げて、名前ちゃんを見た。
何でもないような顔できょとんとしている。
いや、いや、いや!
そこは駄目だろう!仮にも俺、男なんだよ?
そ、それにじいちゃんも入った事のない名前ちゃんの家なんて…そんな…え、えへ…。

脳裏に名前ちゃんの部屋でイチャイチャするイメージが浮かぶ。
ひいじいちゃんに悪いし〜と言いつつ、ちゃっかり自分にとってイイ想像をしてしまうあたり、俺は本当に駄目な奴だと思う。

「うちの母が善照さんに会いたがってるんですよね、変なの」
「え、あ…お、お母さん?」
「そうです、母が」
「あ、ああ…そう」

そう言われて少しだけ落胆する。
あ、ご家族もご在宅ですよね。そりゃそうだ。
でも名前ちゃんのお母さんって、前に名前ちゃんが倒れた時に迎えに来たお母さんだよね?
俺に会いたいって何で?

「なので今日、帰り一緒に帰りましょ」
「…はい」

名前ちゃんのお誘いを断る訳にはいかない。
俺は何度もこくこくと頷いた。
ごめん、ひいじいちゃん。
俺、ご家族に挨拶までしちゃうよ。まるで付き合ってる彼氏彼女みたいだ。
羨ましいだろう羨ましいだろう。

心の中でひいじいちゃんにマウントを取っている間に、お昼のチャイムが鳴り響いた。
食べかけのご飯をかき込み、俺たちは大慌てで教室へと戻った。


―――――――――――――

昇降口の壁に背中をつけて、名前ちゃんを待つ。
女の子と下校するのがこんなにも楽しみな事だったなんて、知らなかった。
俺の心臓は相変わらずバクバクと音を立てているし、今ならタップダンスだって出来そうだ。
気が付けば頬も緩んでしまうので、緩んだら戻し緩んだら戻し、を繰り返す。

「…変な顔してますよ」

軽蔑の眼差しとともに名前ちゃんは現れた。
俺の顔を目を細めてじーっと見つめ「ほら、行きますよ」と言う声に俺は従う。

「名前ちゃんのお母さんってどんな人?」
「別に普通の母ですよ」
「イメージだと優しそうだけど」
「優しいとは思いますが」

名前ちゃんと横並びになって、校門を出た。
俺の方を見ないでぽつり呟く名前ちゃんの姿に、俺はドキドキしていた。

「あ、そう言えば、ご家族は“あの事”知ってるの?」

あの事、というのは名前ちゃんが大正時代にタイムスリップしていた事だ。
外であまり目立ったことは言いたくなくて、ちょっと濁した。
名前ちゃんは何が言いたいのか分かったのか、頷いて「母は知ってます」と言った。

「父も弟も何となく知って入るとは思いますが、母が一番よく知っています」
「そうなんだ…」
「でも、母の前でその話、しないで下さいね」
「どうして?」

名前ちゃんが俺を見る。
俺は首を傾げた。


「だって、折角帰ってきた娘がまた、消えようとしているんですよ? そんな話、母に出来ません」


あ、そうか。
名前ちゃんがあの時代に戻る、ということは
この時代の家族を残して行く、ということなんだ。
俺も。
そうなった時、俺はどうすればいいんだろう。
ちゃんと名前ちゃんにお別れを言えるのだろうか。
引き留めたくて泣き喚くのだろうか。

…明らか後者だな。

「つきましたよー」

俺の考え事は名前ちゃんの一言で打ち止め。
立ち止まった先にあったのは、普通の一軒家だ。

名前ちゃんが先に玄関のドアに手をかけ、カチャリと開ける。
そして俺に「どうぞ」と言って中へ進めてくれた。

「ただいま。お母さん、連れてきたよ」

中のリビングに向かって名前ちゃんが叫ぶ。
すると、すぐにトコトコと可愛らしい足音が響き、名前ちゃんのお母さんが奥からやってきた。

「おかえり。いらっしゃい、我妻くん」

にこりと笑った顔が名前ちゃんにそっくりだ。
名前ちゃんはお母さん似だな。

「お、お邪魔します…」
「どうぞ、ゆっくりしていってね」

まずリビングにそのまま進められ、奥へと入った。
キッチン横のダイニングテーブルの椅子に腰かけるよう言われ、緊張しながらも腰を下ろした。
俺のカバンを名前ちゃんが近くの籠に入れてくれた。

「お茶でいいかしら?」
「は、はいっ」
「緊張しすぎで気持ち悪いですよ…」

にこにことお茶の用意をしてくれる名前ちゃんのお母さん。
上ずった声で俺が返事をすると、名前ちゃんがまた目を細めて俺を見る。
この状況で、緊張しないやつが居たら連れてきて欲しい。

「私、お手洗いに行ってきます」

この状況だというのに、さっさと名前ちゃんは消えた。
俺は行かないでと念を送ったけれど、全然通じなかった。

お母さんのお茶を用意する音だけがリビングに響く。
ドキドキしながら、俺は自分のズボンを握った。


「貴方は、知ってるの?」


突然、話しかけられた言葉に驚いて顔を上げた。
お母さんは困った顔で目を細める。
言っている意味があっているのであればイエスだ。

「…はい」
「そう」

名前ちゃんのお母さんは視線を下げる。

「君は、あの男の子にそっくりだけど、別人、よね」
「あの、男の子?」

お母さんは口を開きかけて、すぐ閉じた。
だけど、やっぱり口を開いた。


「金髪の子」


ドクンと胸が鳴った。
名前ちゃんのお母さんもひいじいちゃんを知っているんだ。
だからか。
初めて会った時、俺の顔を見て驚いた顔をしていたのは。

「ごめんなさいね。気になったものだから」

そう言ってお母さんはそれきり黙ってしまった。
俺も何て言っていいのか分からなかったので、同じように黙っていた。

名前ちゃんがトイレから戻ってきて、あまりの雰囲気に不思議そうな顔をしていた。



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