23. 傍にいる


馬鹿だなぁと思う。
目の前で震える手で俺の制服の袖を掴んでいる様子を見て、そう思った。
はらはらと泣きながら、嗚咽を零す姿も決して可愛いとは言えないけれど、俺にとってはつい抱き締めてしまいたくなるくらい、愛しいなと思った。
…自分の存在が危ぶいというのに。

名前ちゃんの泣き顔は何度も見てきたけれど、この涙はひいじいちゃんを想ってじゃない。
初めて俺のために泣いてくれた、その涙。
嬉しいと感じてしまう俺は、名前ちゃんの事どれだけ好きすぎるんだと心の中で笑った。
馬鹿なのは俺も同じか。

自分の願いよりも、俺のために、俺が存在するためにあの時代に帰る事を諦めようとしている。
優しすぎるんだよなぁ。
このまま気付くことなくあの時代に帰ればよかったのに。
そうすればこんな風に感情的に泣くこともないのにさ。
名前ちゃんの言う通りかもしれない。
あの時代に名前ちゃんが帰れば、きっとひいじいちゃんは名前ちゃんと一生添い遂げるだろう。
そんなの、じいちゃんの本を読んでいれば分かる。
あんなに想っている人がいて、他に現を抜かすなんてあり得ない。
だけど、そうなるとすれば。
きっと俺や姉ちゃんは全く別の存在として生まれてくるだろう。
俺や姉ちゃんという一人の存在が消えて。

…SFって難しいな。
一生好きになれそうにないや。

ここで俺が、肯定して名前ちゃんと現代で一緒に過ごそうと言えば、どうなるんだろうか。
…言わなくても分かる。
前々から思っていた。
名前ちゃんはあの時代に“帰る”と言うんだ。
とっくにこの時代は名前ちゃんの帰ってくる場所なんかじゃない。
本心は諦める事なんてできないだろうに。

俺と一緒に居てくれる、最大のチャンスが目の前にあるとは言えね。
残念ながら俺も馬鹿だからさ。
好きな女の子に悲しい選択をさせて自分が幸せになるなんて事、出来ないんだよ。
そりゃ俺と一緒にこの時代を生きてくれるなら、これほど幸せな事はないだろう。
幻想、儚い夢。

自分の存在よりも名前ちゃんの願いを叶えてやりたいなんて、馬鹿にも程がある。
でもさ、俺思うんだよ。
何となく、理解しつつあるんだよ。
何で俺の家に名前ちゃんのシュシュがあったのか。

薄い可能性かもしれない。
それでも俺は、その可能性が夢なんかじゃないって、信じてる。


「…女の子に泣いて縋りつかれるって、なんかいいよね」


ぽつりと零したセリフに、目の前の名前ちゃんは一瞬ポカンとした顔で聞いていた。
そしてキっと目を鋭くして「何馬鹿な事を…!」と怒り始める。
怒った顔も好きなんだ。
泣いている顔より、そっちの方がいい。

「難しい事は専門外なんだよね。脳が途中で拒否するっていうか。だから、あるかどうかわからないSFチックな話はやめよう」
「冗談じゃないんですよ?私は、善照さんたちが…」
「へえ、じゃあやっぱり諦めるんだ?」
「……っ、はい…」

そんな苦しそうな顔をしてさ、頷いても駄目だよ。
女の子をイジメる趣味はないから、ここまでにしとこうかな。


「大丈夫だから」


俺の袖を掴んでいた手を、俺の両手で包み込む。
固く凝り固まった拳。
これを優しく包むと、ふ、と名前ちゃんの表情が少し柔らかくなった。

「なんか忘れてない?俺はひいじいちゃんの本の内容を知っているんだよ?この後のこともね」

嘘だ。
本当は途中で読めない。
でもそんな事、どうでもいい。

「名前ちゃんが心配する事なんか、1つもないよ。あ、でも名前ちゃんが俺の横にずっと居てくれるって言うならやぶさかでないけどね」
「…っ、」

優しい君の事だから、俺の言葉に嘘が混じっている事にも気づいてるだろう。
だからそんなくちゃっとした顔で俺を見るんでしょ。
俺が見たいのはさ、ずっと言ってるけどそんな顔じゃなくてね。

「心配しなくてもなんとでもなるんだ。困ったら愈史郎さん?に聞けばいい。その人が鬼だと言うなら、俺なんかよりも全部知ってる筈だよ」
「…もし、最悪の選択になるとしたら…?」

一筋、頬を伝う雫。
俺はその頬に手を伸ばして、指の腹でそっと拭ってやる。
あーあ、また腫れるよこれ。


「その時は、名前ちゃんには、俺と一緒にこの時代で生きてもらわないと」


にや、と悪い事でも考えているように笑うと、名前ちゃんの目が細くなる。
そのせいでまた涙がこぼれ落ちた。
泣きすぎ。


「…名前ちゃん」


名前ちゃんの後頭部に手を回し、俺の顔に名前ちゃんの顔を近づけて。
…格好良くキスのひとつでもすれば良かったんだけど。
残念ながら、俺にはそんな度胸はない。
こつん、と名前ちゃんの額と俺の額をぶつける。
窓から入る風で名前ちゃんの髪が揺れ、俺の首に当たる。
こそばゆい。

「名前ちゃんとは約束を何回かしたけどさ、これだけは絶対守って欲しいんだ」
「…約束?」
「そ、何よりも優先して欲しい」

名前ちゃんの頭を撫でながら俺は、自分にとって辛い一言を呟く。


「絶対、ひいじいちゃんから離れないで。ずっと傍にいるんだよ。じゃないと俺がひいじいちゃんに恨まれるし」


何が悲しくて、好きな子と別れるための呪いの言葉を吐かないといけないんだ。
ひいじいちゃんの為なんかじゃない、名前ちゃんの為だよ。
この大切な子がどうか幸せに過ごせるように。
ひいじいちゃんだって、選ぶべき人を分かってるんだろう?

名前ちゃんが息を飲んだ。
そんなのできっこない、なんて言っているようで。
俺は少しだけ嬉しくなったけど、それじゃだめなんだ。
だって君は、ひいじいちゃんに会うために居るんでしょ?

「善照さんは優しすぎます」
「ひいじいちゃんよりも?」

名前ちゃんのか弱い声が俺の耳に届く。
意地悪なことを聞いていると分かっている。
答えも分かりきってるよ。

俺はその声をずっと聞いていたい気持ちになった。
この時が、止まればいいのに。


名前ちゃんは俺の瞳をじっと見つめて、俺の髪に手を伸ばした。


「当たり前です、誰よりも…優しい人」


名前ちゃんが気はずかしそうに笑う。
それを見て胸がどくんと脈打った。
俺の一方通行の想いは最初から交わることはないけれど、1つでもいいんだ。
あんなに想われているじいちゃんに、勝ってる部分があるだけで、俺は満足だよ。

「…もし帰ることが出来ても、私が絶対何とかします」
「当たり前だよ、俺だって消えるのは嫌だからさ」
「……善逸さんと禰豆子ちゃんの間に子さえ出来れば…」
「…いや、そういうんじゃなくてね」

真剣な顔で悩む姿に不安を覚えつつ、俺はため息を吐いた。

…真面目系おバカって名前ちゃんのことを言うんだね。



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