26. 借り


愈史郎さんも善照さんも、私が泣き止むまでずっと待ってくれていた。
私は次第に落ち着きを取り戻し、最後に大きく深呼吸をして、もう一度手元の紙を見た。
字は勿論違うけれど、紛れもないあの人の言葉だ。
私の大好きなあの人。
久しぶりにあの人の面影を感じて、心が満たされていくようだった。

「…ごめんなさい」

ぽつりと愈史郎さんに言うと、すぐに「いや」と返ってきた。
案外愈史郎さんは優しい事がこれで分かった。
善照さんも黙って私を見ている。

「この時代に残るのか、あの時代に帰るのか、それを決める前にアイツの伝言を見せると、問答無用で『帰る』って言うだろうから、先に決めさせた」
「…そうだったんですね」

私がもし「この時代に残る」と言っていたら、きっとこの紙は見せてもらえなかっただろう。
でも何故そんな面倒な事をしたんだろう。
私が帰ろうが残ろうが、愈史郎さんにはどうでもいい事だと思うのに。
私の言いたい事が伝わったのか、愈史郎さんが呆れたように口を開く。

「…それも、あいつの望みだ」
「優しいのか馬鹿なのかわかりませんね」
「馬鹿だ、明らかにな」

ふう、と愈史郎さんが一息吐いて。
それから柔らかい顔だったのが、少しだけ真面目な表情に変化した。
その違いがこの短期間で分かるようになった。

「そもそも俺の血鬼術ではお前をあの時代に帰す事は出来ない。だが、それが残っている以上、手立てはある」

それ、と指さされたのは私の右手首に残る痣。
これは私があの時代に飛ばされた時に出来たもので、鬼が滅せられてから暫く消えていた。
それがこの時代に戻ってきた時に再発したのだ。
善照さんが隣でごくりと唾を飲む。

「じゃ、じゃあ、今すぐにでも帰れるってこと?」
「戻ろうと思えばな」
「名前ちゃん、だったら…」
「いいのか?さっきも言ったが、この時代にいる人間とは本当に最後だ」

善照さんの言葉を愈史郎さんが遮り、私の目をじっと見据える。
帰りたい、今すぐにでも。
でも。


「少し、お時間を頂いてもよろしいでしょうか」
「名前ちゃん!?」


私の言葉に驚いたのは善照さんだった。
ずっと帰りたいと泣き喚いていた私を知っているだけに、何故私がそんな発言をするのか不思議なようだった。
善照さんの顔に視線を向け、私はにこりと微笑んだ。

「誰一人、私はお別れを言ってないんですよ」
「あ…」
「残していく家族、少しの間仲良くしてくれた友達や大好きな善照さん達にも」

手元の紙を握る私。
すぐにでも戻って善逸さんの元へ行きたい。
でも、ここに残していく人たちにお別れを言う時間は欲しい。
それくらい、あの人を待たせたっていいでしょう?


「いいだろう」


優しい穏やかな声で愈史郎さんが呟く。

「炭治郎さんが言ってた通りですね」

ずず、と鼻をすすり、愈史郎さんを見つめる。
なんだ?とでも言いたげな視線が私に降ってくる。


「愈史郎さんは、愈史郎さん達は、私たちと同じ思いを持つ、人間だと」


そう言うと愈史郎さんの目が軽く見開かれて、すぐにふ、と笑った。
隣の善照さんが驚いた顔をしていた。
愈史郎さんが笑った顔を見せたのは、それが初めてだったからだ。


◇◇◇


外はすっかり日が暮れて。
とてもじゃないけど、この真っ暗の中無事に山を下りれる気がしない。
どうしようかと善照さんと2人顔を見合わせてたら、またまた驚いた事に愈史郎さんが「泊まっていけ」とぶっきらぼうに言った。

「泊まるって、ここにですか?」
「嫌なら外で寝ろ」
「…是非とも、泊まらせて下さい」

酷い物言いだけども、私はもう愈史郎さんが優しい人だと知ってしまったから、心の中でほくそ笑んだ。
明日は日曜日、明日帰れば問題は無い。
スマホで母に連絡だけ入れて、私達は愈史郎さんのお家に泊まることにした。

2階のお部屋に案内された。
階段から一番手前は私、その隣の部屋は善照さんだ。

「一緒の部屋でもいいのに」

とブツブツ呟く姿が、いつかの金髪と被って私は笑いが止まらなかった。

この家には保存食くらいしかないとのことで、晩御飯にカップラーメンを頂いた。
勿論贅沢は言えない。
そのまま各々の部屋で眠る事にしたけれど、布団に入っても私は全く眠れなかった。
今後の事、善逸さんの事、それから家族、善照さんのこと。
考えれば考える程眠気から遠ざかっていく。
結局私は、布団の中にいる事を諦めた。

善照さんが寝ているだろうから、と静かに扉を開けて1階へ降りていく。
予想通り、リビングのソファには愈史郎さんが膝に茶々丸ちゃんを乗せて座っていた。
階段から顔を出した私を見ても、愈史郎さんは驚かなかった。

「眠れないのか」
「ええ」

愈史郎さんの真向かいに腰を下ろした。
すると愈史郎さんはソファの横に置いてあったブランケットをこちらに渡してくれる。
有難く受け取り、それを膝に掛けた。

「聞いてもいいですか?」
「…答えられる範囲ならな」

聞きたい事は沢山ある。
茶々丸ちゃんに視線を落としながら、私は一番聞きたかった事を口にした。


「善照さんの」

「あ?」


不機嫌そうにちらっとこちらを見る愈史郎さん。
怯むことなく、私は続けた。

「善照さんの存在が、無かったことになりませんか?」

ブランケットの端をぎゅっと掴む。
善照さんは以前、同じ事を言った時、それでも善逸さんの傍にいろと言ってくれた。
私だって勿論そうしたい、だけど本当にそうなった時、善照さんは、燈子先輩はこの世界から居なくなってしまうのではないか。
どうすればいいのか全く正解が分からない。
だから、この人に聞く。
あの時代から生きる、この人なら。

「…心配するな」

さわ、と愈史郎さんが私から視線を外し、茶々丸ちゃんをひと撫で。
その一言で、私の中の不安な気持ちが一掃されたようだった。

「本当、ですか」
「嘘だと思うなら残ればいい」
「いえ、愈史郎さんはそんな酷い嘘、つかないと思います」
「俺を買いかぶり過ぎだ」

にゃーお、と茶々丸ちゃんが小さく鳴いた。
それがまるで「大丈夫」と言ってくれてるようで、自然と頬が緩んだ。


「良かった」


安堵から出た言葉だった。
脳裏に浮かぶ、愛しい人に似た笑顔。
同じ人ではないけれど、彼も私の中で大きな存在となっている。
彼が不都合な目にあってはならない。
心の底からそう思っている。

「…あと一つ、いいですか」
「それ聞いたら寝ろよ」
「…善処はしますよ」

面倒臭そうに答える愈史郎さん。
愈史郎さんの不器用な優しさを感じつつ、私は最後の質問を問いかけた。

「どうして、ここまでしてくれるんですか?」

ピタ、と茶々丸ちゃんを撫でる手が止まる。

愈史郎さんは、どうして私達に良くしてくれるんだろう。
正直、私があの時代に居た時は愈史郎さんと面識なんて無かった筈だし、いくらなんでもお人好しすぎではないだろうか。
愈史郎さんに限ってそんな事はないと思うけど、裏があったり…?

怖い返答が返ってこないかドキドキしながら、答えを待つ。
愈史郎さんは、はぁ、と小さくため息を吐いて再度私に視線を合わせた。


「60年分の借りがあるからな」

「借り?」


言っている意味が分からない。
首を傾げてどういう意味だと聞いても、愈史郎さんはそれ以上答えてはくれなかった。
さっさと寝ろ、と促され、私は唇を尖らせながら席を立つことにした。



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