27. 教えてあげない
リビングを出て、階段を上ろうと足を上げた。
が、その足も途中で止まってしまった。
階段の途中で座り込む一つの影が、私をじっと見つめていたからだ。
「…起きてたんですか」
「名前ちゃんこそ、ね」
善照さんが今にも泣きそうな顔で階段に座り込んでいた。
先程の愈史郎さんとの会話が聞こえていたのだろう。
善照さんは「馬鹿じゃないの」とぽつりと零した。
「俺の事なんて気にしないでいればいいのにさ。折角帰れるんだから」
グズ、と鼻をすすり下から見上げるように私を見る善照さん。
まるで小さい子が泣いているような、守ってあげたくなるような庇護欲が刺激される様子に私はくすりと笑ってしまった。
「善逸さんも大切ですけど、私にとっては善照さん達も忘れられない存在なんですよ」
黒髪のその頭をそっと撫でた。
さらさらと流れる髪を撫でながら、善逸さんと同じだなぁなんて呑気に考えていた。
我妻家の人間は皆、こぞって優しい。
それもこれも遺伝のお陰だとすると、とんでもないな。
…ほんと、嫌いになる事なんて出来ない人たちだこと。
「俺は、俺は…愈史郎さんの話を聞いて、名前ちゃんが帰れるって分かった時、喜びよりも悲しみが勝ったような酷い人間だよ」
「私だって、善照さんと離れるのは嫌です」
「…名前ちゃんが思うほど、俺は良い人じゃないよ」
「いえ、良い人です。誰よりも」
自分は酷い人間だと小さく震える姿に私は愛おしさも感じていた。
目線を合わせるように腰を下ろし、善照さんの頭をそっと抱き締めた。
私よりも遥かに背の高い男の人なのに、胸の中にいるこの人はまるで幼子のようだ。
どこか離れがたい大切な、そんな存在。
「貴方が居てくれて良かった。じゃなければ私はここまで来ることが出来ませんでした」
大好きな、大好きなこの人を悲しませてしまう事に胸が痛まない訳ない。
夢物語を言えるのであれば、みんな一緒に居たい。
でもそれはいくらなんでも無理だと分かっている。
だからこそ、別れなければいけない。
「……ずっと俺の傍に居てほしいって思っちゃうような奴だよ」
「それを包み隠さず私に言うところが、善照さんの優しい所なんです」
「…じいちゃんも優しかった…?」
急に善逸さんの事を言われて、一瞬驚いた。
だけど、私は抱き締めていた頭から身体を離し、にこりと微笑む。
「あの人も優しいですけど、あの人は私の事しか頭にないんですよ」
「…凄い自信だね」
そこでやっと善照さんが小さく笑う。
自分でも凄い発言だと思う。
それでも今までの事を思えば、有り得るだろう。
「自分が死ぬことになろうとも、私を守ってくれるんですよ」
「…そうだったね」
善逸さんの本を読んでいる善照さんなら、よくご存知だろう。
あの人がどれだけ私を守るために奔走していたか。
私を無理やり戦場に行かせないため、強硬手段を使った、あの人。
「…あの人が好きなんです、誰よりも」
初めて善照さんにはっきりと口にしたように思う。
善照さんがすうっと息を吸って、目を細める。
「……よく知ってるよ」
苦しそうに吐き出された言葉を、私は飲み込んだ。
…善照さんが私に良くしてくれる理由を、私はずっと前から知っていた。
それに気付かないふりをして、ここまで来た。
このまま何も知らない顔をして帰ることはできるけど、それは善照さんに失礼なことだ。
「例えこの先善逸さんが他の誰かを選んだとしても、私はあの人のそばにいたいんです…ストーカー気質である自覚はありますよ?」
「いいんじゃないの。その時はじいちゃんよりイケメンな男を捕まえて、幸せになればいいんだ」
「それもいいですね」
ふふ、と零れた笑みに暗い顔をしていた善照さんの表情も明るくなる。
貴方を選ぶことが出来ない私を、どうか許してほしいなんて、烏滸がましい事は望んでいない。
だけど、この人の幸せを遠くから願うくらいは許されてもいいでしょう?
ねえ、善照さん。
◇◇◇
「善逸さんの元に」
泣きながらはっきりと告げるその姿に、俺は目を離すことが出来なかった。
最初から分かっていたし、彼女をひいじいちゃんの時代に帰らせるために、ここまでやって来た。
だけどはっきり言葉で聞いて、俺は胸の内に広がるドロドロとしたモヤをどうすることも出来なかった。
あれだけ名前ちゃんの為、と言いながら俺はずっとそばにいて欲しかったんだ。
俺を選ぶ可能性なんて皆無なのに。
ひいじいちゃんからのメモを大事そうに握って、嗚咽を漏らす姿だって、こんなにも胸が痛くなる。
俺は結局、俺の事しか考えて無かったんだ。
ああ、ごめん名前ちゃん。
夜中、話し声が聞こえたからそっと足を忍ばせて、聞き耳を立てた。
愈史郎さんと名前ちゃんの話し声はとても穏やかで、聞き入っていたら寝てしまいそうなくらい優しかった。
「善照さんの存在が、無かったことになりませんか?」
名前ちゃんの言葉に、ドクンと心臓が跳ねた。
前に教室で泣いていた名前ちゃんは同じ事を言っていた。
だけど立ち直って、何が何でもあの時代に帰るって意気込んでいた筈なのに。
ずっと、ずっと。
俺の事を、考えてくれていたんだ。
「良かった」
心底安心したように呟いた名前ちゃんの言葉を聞いて、自分が恥ずかしくなった。
俺は結局、好きな女の子に守られていたんだ。
その事実を実感した時、俺はその場にしゃがみ込んで消えてしまいたかった。
情けないところを名前ちゃんに見つかって、取り繕う事もしなかった。
俺の事を大切だと言う名前ちゃん。
大切なら、俺の傍に居てよ。ひいじいちゃんのところへなんて、行かないでほしい。
そう言うと絶対困るだろうから口にはしないけど、俺の心の中はぐちゃぐちゃだ。
「あの人が好きなんです、誰よりも」
そんな泣きそうな顔で笑わないで。
そんなこと、ずっと前から知ってるよ。
でも、きっと名前ちゃんは情けない俺に伝えてくれたんだろう。
俺を選ぶことはない、と。
例えじいちゃんが自分を選ばなかったとしても。
選ばない訳ないだろう。
あの本を書いたじいちゃんが名前ちゃんを手放す筈がない。
俺も同じ血が流れているというのなら、はっきりわかる。
善逸じいさんにとって、君は唯一なんだよ。
ムカつくから教えてあげないけどね。