29. 朗読会


心臓が痛い。
これから発する言葉がどれだけ父と母を傷つけるか、想像するに堪えない。
いっそのこと何もなかったように、適当に濁してしまおうか。
そんな事が頭を過ったけれど、瞼を閉じれば浮かぶのは金色の髪を揺らしたあの人。
結局の所、私はどうしようもない親不孝者らしい。

「私、あの時代に戻りたいの」

ぽつりと呟いた言葉は何よりも二人にとって残酷だったに違いない。
普通に考えればこの一言だけで罵倒されてもおかしくないくらいだ。
だけど二人は黙って、私の言葉を待っている。
母の唇が微かに震えているのを見ながら、私は続けた。

「もうお父さんとお母さんの子ではいられない」

ズキンズキン。
痛む心臓が更に悲鳴を上げる。
自分だってこんなひどい事、言いたくはない。
どう言えばいいのかもわからない。
それ以上言葉が続かなくなってしまって、私は俯いてしまった。
言葉足らずなのは重々理解している。
もっと、上手く言葉に出来たらいいのに。

「戻る、って名前が連れ去られた、あの場所に?」

母がなるべく穏やかに言葉を紡ぐ。
でもその声が震えている。
私達は“あの場所”の事を、これまできちんと話したことが無かった。
父も母も私が傷つくと思って、あえて口にして来なかったと思う。
私も触れてほしくは無かった。
でも何となく、二人は私の事情を知っているんだなと思っていた。

母の言葉にこくりと頷く私。
膝の上の拳をぎゅっと固く握りしめた。

「……名前が戻るべき場所は、この家なんじゃないの?」

確信を突かれたようだった。
自然と口にしていた、“戻る”という言葉。
それは本来、家を指すものなんだろう。
なのに私は、あの時代に“戻る、帰りたい”と言っていた。
自分の意識が既にこの時代に無い事を理解して、驚いた。
父も母も驚いているようだった。
母は語尾を強くして、さらに続けた。

「私たちと二度と会えなくてもいいの?」
「……良い事なんてない」

結局我慢できずに口に出してしまった。
母の言葉をはっきり否定する私。
母は「だったら…!」と更に大きな声を上げた。


「ごめんね、お母さん」


泣くつもりなんて無かった。
最後まで自分の意見をしっかり言うつもりで、この場に居た。
なのに、私の瞳からは涙が溢れていた。
別れたくなんてない。
ずっと一緒に居たい。折角、また会えたのだから、今度こそ離れたくないと。
そう思うのに。

「……私の居場所は、ここじゃないって、分かるの」

生まれた時代、育った家、愛してくれた人。
ここにあるのに、何故か私の居場所じゃないと、ずっとあの時から思っているの。
善逸さんと別れたあの日から、私の気持ちはずっと止まったまま。
前を向かなきゃって思ったときもあったけれど、結局私の前には善逸さんの背中しかない。

グズグズと鼻をすすっても、涙を拭う事はしなかった。
目を逸らさずに母の目をじっと見つめる。
母の目が不安に揺れていた。


「……一度は送り出したのにね」


苦しそうに母は呟いた。
一度、それは私があの時代で瀕死の目にあった時。
夢で母と再会し、一緒に最初で最後のカレーを作った。
あれはただの夢では無かった。母もあの夢を見たという。
あの時私に言ってくれた言葉は、嘘じゃないって分かってる。

「もう二度と会えないと思っていた、可愛いわが子が私の所へ戻ってきたのよ」

母の目にも大きな雫が溜まっている。
それを見てさらに私は顔を歪めた。

「もう手放したくないって、思ったの」

つうっと頬を伝う涙。
なんて酷い娘なんだろう、私は。
こんなに思ってくれているのに、本当に親不孝でしかないなんて。

「私、わたし…っ」

言葉に出来なくて、それでも伝えたくて。
必死に言葉にしようとした。
それをずっと黙っていた父が優しく制止する。
私は視線を母から父に変えて「お父さん」と一つ零した。

「…お母さんも、名前も。落ち着きなさい」

ゆっくりと、はっきり。
私の耳に届く優しい声。
父の目も僅かに潤んでいるのが分かった。
きっと母の様に言いたいことがあるのだろうと思う。
それをじっと堪えて、私の事を考えてくれている。

「こういう難しい話は、お父さん苦手なんだよ」

そう言ってくすりと笑う父。
わざとそう言う言い方をしているのは分かっている。
いつもの優しい、父だ。

「お父さんはお母さんのように、夢で見たわけでもないから、名前がどこに居てどういう生活をしたのか完全に理解する事は出来ない。勿論、お母さんは逐一教えてくれていたけれどね」
「…そう、だね」
「でもこの時代よりずっと危険な場所だという事は理解しているんだ」
「うん」

父の言葉は優しいだけじゃない。
冷静さを欠いていた私を必死に落ち着かせようとする力がある。
自分の気持ちだけを押し通すのではなく、父や母の気持ちも理解してくれと言っているようだった。


「…可愛い可愛い、娘なんだよ」


父の手が私の頭に伸びてきて、それから優しく撫でた。
一瞬で幼い頃、父と一緒に遊んだときの記憶がフラッシュバックする。
更に涙が込み上げてきた私に、困った顔をする父。

「単純にどうぞどうぞ、行ってらっしゃいと言う訳にはいかない。お父さんもお母さんも、“彼”の事を良く知らないからね」

彼。
それはきっと善逸さんの事だろう。

「“彼”が名前を守ってくれると言っても、信頼に値する人間なのかもわからない。だからね、教えて欲しいんだよ」
「おしえ、る?」
「名前の行こうとしている時代の事、そこに生きる人々の事、それから我妻善逸という男の事」
「…うん」

父の口から善逸さんの名前が出た。
正直驚いた。
名前まで知っているとは思っていなかったから。
父は知りたいという。
私が過ごしていた場所の事を。

「……あ、本…」

ふと頭を過ったのは、先程善照さんから預かった本だった。
善逸さんの書いた本。
私は思い出したようにカバンから本を取り出し、それを恐る恐る父と母の前に差し出した。


「善逸さんの、自伝です」


父は私と本を交互に見て、そして私の手からそっと本を受け取った。

「……お母さん、久しぶりに親子で絵本の朗読でもしようか」
「絵なんて一つもないと思うよ」
「光景はお母さんが知っているから。それから、補足説明をしてくれるんだろう?」
「まかせて」

お父さんの隣に私とお母さんが詰め寄る。
三人横に並んで、父の手にある本を見つめた。
本当は見たくはなかったけれど、少しでも父と母に善逸さんの事が分かってもらえるなら、喜んで読む。

読み終わるのにどれだけ時間が掛かるか分からない。
それでも三人で読みたい。

父の手が最初の1ページを捲った。



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