32. 行ってきます


竈門くん(炭治郎さん)は、

「名前を初めて見た時から、何となく状況は理解したけど、俺が名前に声を掛ければ、どうなるかもわかってるつもりだった。…俺が炭治郎だと明かせば、きっと名前は存在しない善逸を探しただろう?」

と、言った。

本当にその通りだった。
もし、初めて会った段階で炭治郎さんだと言われれば、私はきっと前を向いて歩く事なんてしない。
炭治郎さんがいるなら、善逸さんもいるはずだとこの時代で善逸さんを探す事に翻弄しただろう。
善照さんの事を、善逸さんだと決めつけてしまうかもしれない。

私のためを思ってずっと黙っててくれたんだと思うと、また止まりかけた涙が溢れてくる。

「俺は大混乱なんですけど…なんか炭彦が炭彦じゃない感じ」
「俺は炭彦だよ。ただ、炭治郎の記憶を持っているだけの、ね」

頭を抱えて善照さんが青ざめる。
竈門くんと付き合いの長い善照さんは、こんな竈門くんは初めて目にしたようで、さっきからおどおどしながら私達を見ていた。
それを竈門くんが安心させるように言った。

「炭治郎の記憶も、全部じゃない。ただ“知ってる”だけなんだ。勿論、炭治郎の能力が使えるわけでもないからね」
「全部じゃない、と言いますがこの後の事もまるで知っているみたいですね?」

竈門くんだと分かっていても、一度炭治郎さんと認識してしまったら、敬語が取れなくなってしまった。
くすりと笑って竈門くんが「そうだな、」と言う。

「勿論全部じゃない、でも知ってる。それを全て言う訳にはいかないけれど」
「初めから?」
「確信はなかった。さっき言ったように、名前がこの時代で生きることを選択する、そういう未来もあるはずだったから。……そうなると色々、弊害もあったわけだが、名前の生きる道だから俺は反対出来ない」
「そういうこと、ですか」

確かに帰れる保証を見つけるまで、ずっとこの時代で生きていくと思っていた。
弊害、っていうのはちょっとよくわからないけど、結局帰る事を選択した事によって、こうして竈門くんの一面を知る事が出来た。
それは、とても嬉しかった。

「ただ、お別れになるなら、ちゃんと言いたかったんだ。もう名前に会うのは最後だからな」
「……ずっと、見守ってくれていたんですね。ありがとう、竈門くん」

ふう、と重い息を吐いて善照さんが私達の横に立つ。
まだ複雑な表情をしているけれど、何となく理解はしてくれたようだ。
竈門くんに手を出すと、同じく竈門くんが手を伸ばしてきてくれた。
柔らかい掌が私の手を掴んでくれて。
固く握手をした。

きっと、これが最後。
私の、お友達。



帰り道、私と善照さんは暫く黙ったまま並んで歩いた。
色々思う事はあるけれど、やっぱりちゃんと別れを言えたのは良かった。
これで心置きなく、善逸さんの元へ行ける。

「出発は、明日?」

ずっと黙っていた善照さんが、やっと口を開いた。
私はその言葉にこくりと頷き、2人の影が映るアスファルトに目を落とした。

「お別れを言いたかった人には、全員言うことが出来ましたから」

それは家族も含めて。
先週の土日に家族で旅行に行った。
これで最後だとなんども言い聞かせて。
帰りの車の中でみんな泣いていたけど、次の日は笑顔で迎えてくれた。

学校の人にも。
あと残るはただ1人。
ちらりと視線を隣に向けて、微笑んだ。

「着いてきてくれますか?」
「任せてよ、じいちゃんのとこに送り届けるまで、俺の仕事だから」
「…ありがとうございます」

まるで普段の何でもない会話のように言ってくれる善照さんには、感謝しかない。
ちゃんと、お別れをしないといけない。
そうわかっているのに、都合よく離れたくないと思ってしまう自分が情けなく思う。

果たして、私は明日、この人に別れの言葉を言う事ができるだろうか。


◇◇◇


「そろそろ、行くね」

玄関で靴をとんとんとならし、私は振り返った。
玄関まで父、母、和樹がお見送りをしてくれたのだ。
これが最後だと分かっているから、目に涙を浮かべてしまうのは仕方ないと思う。
前と違うのはきちんとお別れをいう時間があったこと。
それだけは本当に感謝しないと。

背中に背負ったリュックの中身は、私が数か月前に持ち込んだあの時代のもの。
久しぶりに自分の羽織を見て、複雑な気持ちが湧いた。
丁寧に家族の顔を一人一人眺めていく。
この目に焼き付けるように。

「…名前、最後に一つ約束してくれる?」
「なあに、お母さん」

私の手の平を包みながら、母が言う。
その声が若干震えているのを私は知らないフリをして、無理矢理笑顔で答える。


「どれだけ時間が掛かってもいいから、ね、花嫁姿を見せに来てくれる?」


言いながら、ほろりと零れ落ちる雫。
それを眺めながら、私の頬にも同じものが流れた。

きっとその約束は叶わない。
お互い分かっている。
それでも、私は力強く頷いた。
無理だと分かっていても、どうにかすると誓って。

「綺麗になって見せにくるからね」

無理だと、分かっていても。
そう答えずにはいられない。

離したくはないけれど、その手をゆっくりと離し、私はドアに手を掛けた。


「行ってきます」


さようなら、と言わない。
また絶対に会えると、思いたいから。


玄関を出た先に、幾度と見た光景があった。
ポケットに手を突っ込んで、外壁にもたれながら、私を待つ善照さんの姿。
普段と変わらない姿が少しだけ心地よかった。

「…ここでお見送りでいいの?」
「愈史郎さんの姿を見せるわけにはいきません、それにきっと家族と一緒だと家までたどり着けないと思います」
「人見知りしそうだもんね、あの人」
「ですね」

心配そうに善照さんが顔を覗き込む。
指で流れた涙を掬い、私は微笑んだ。
とんとん、と段差を下りて善照さんの隣へ。
「行こっか」と柔らかく声をかけてくれて、二人歩き始めた。

道中の会話は正直覚えていない。
喋るよりも、この人を目に焼き付けなければと必死だった。
そんな私に気付いたのか、善照さんがほのかに頬を赤らめた。

「そんなにジロジロ見られると、照れるよ」
「男前が隣にいましたので」
「じいちゃんよりも?」
「うーん…」
「……そこは嘘でも肯定するとこだよ」

本当に普段と変わらない、穏やかな時間。
自分で決めた事とは言え、これがもう無くなってしまう。
ズキズキと痛む胸を抑えることでしか、私は耐える方法がない。

もっとこの時間が続けばいいと、思ったのに。

前回よりも早い時間で愈史郎さんのお家にたどり着いてしまった。
きっと愈史郎さんが導いてくれているのだろう。
ついに、この時が。

数週間前から何一つ変わらないお家。
その扉の前に善照さんと二人並んで、二人で扉をノックした。

扉はすぐに開いた。

この家の主は、以前会ったときよりも優しい顔をしていた。


「…心配するな、お前は絶対に幸せになる」


きっと顔色が晴れない私を見て、元気づけようとしてくれたのだろう。
開口一番にそう言われて、私は小さく「そのつもりです」と答えた。



< >

<トップページへ>