03. 人違い


最近よく読むようになったひいじいちゃんの本。
昨晩もこっそり布団の中で隠れて読んでいたのが仇となったか、完全なる遅刻である。
起こしてくれると思っていた姉ちゃんも、早々に俺を見捨ててカナタと登校したらしい。
くそ…イチャイチャしやがって。

母さんにどやされながら準備をして、朝食も食べないで家を飛び出した。
絶対間に合わないけど、今日の授業は抜けたくないんだよな。
だって教師の中で一番の美人と名高い先生の授業だ。
是非とも遅れてでも参加したい。

残念ながら俺には炭彦のような運動神経は持ち合わせていないので、屋根を滑走したり、壁を飛び乗ったりすることは出来ない。
だからこうして、アスファルトの上をダッシュするしか道はない。

寝坊するきっかけとなったひいじいちゃんの本は、どうやらじいちゃんの自伝らしい。
姉ちゃんは嘘小説っていうけれど、俺も全部が全部信じてはいない。
でも書かれている事が全部嘘だとも思ってはいない。
読み物としてはとても楽しめるものだし、それで寝不足になるのも致し方ないと思う。

寝坊したのはもう一つ理由がある。
この本を読んだ後、必ずと言っていい程夢を見る。
その夢の居心地が良過ぎて、いつまでも瞼を閉じていたくなっちゃうんだ。
色んな夢を見てきたけれど、ほとんど内容は覚えてないから勿体ない気もするけれど、
唯一覚えている女の子と一緒に過ごす日常が、どうしようもなく心がほっこりするんだよな。
女の子と付き合ったことがないから、分からないけど彼氏彼女ってああいう空気なんだろうか。
いつか俺にもあんな彼女が出来るといいな。

姉ちゃんに言ったら「絶対無理!」と一蹴されてしまうんだろうけど。


ある程度走ったところで学校の門が見えた。
見る限り当たり前だけど閉まってる。
マズイな、炭彦じゃないから飛び乗るわけにはいかないし、どうしようかな。
何てことを考えていたら、門の前にいる人に気付けなかった。
その人も俯いていたようで、俺には気付かない。

ダッシュしていた足を急停止し、なんとか踏ん張ると寸前のところでぶつからずに済んだ。
ぶつからなかった事にほっと胸を撫で下ろしていると、俺に気付いたその人…女の子が、
顔を上げて口を開いた。

「あ、ごめんな…さい」

まず聞こえた謝罪に俺も後に続いて謝ろうと思ったんだ。
だけど、顔を上げた女の子の目が大きく見開かれ、そして口元がわなわなと震え出した。

それから俺を見て、


「善逸さん…?」


と、ぽつりと呟く。

どこかで聞いた名前だ、と瞬間的に思ったけど、俺の名前は「善逸」ではない。
完全なる人違いだ。
思わずポカンと女の子を見つめると、何かに気付いたように女の子は口元に手を当てた。

「違っ…ごめんなさい、人違い…」

人違いだと気付いて貰えたようだ。
だけど、女の子の様子はおかしい。
人違いだったーてへっ、と言って恥ずかしがるわけでもなく、紛らわしいんだよボケと怒鳴るわけでもない。
ただただ、小刻みに震え泣いていた。

「だ、大丈夫…?」

女子に嫌われる事はたまにあるけれど、こんな目の前で泣かれたことはなかった。
だから、恐る恐る声を掛けた。

女の子はそこで初めて泣いている事に気付いたようだった。
口元の手をそっと頬に触れさせ、雫のついた手を凝視している。
それから俺をまた見て、そのままへなへなとその場に座り込んでしまった。

「ええ!? ちょ、大丈夫なの!? ねえっ!」

思わず女の子に近付いてしまった。
そこではっきり女の子の顔を見たけれど、何だかこの娘、夢の女の子に似ている気がする。
取りあえず、道路の真ん中に座らせたまままいるのも危ないので、俺は女の子に了解を取って肩をそっと持ち上げる。
そのまま隣のコンビニの前にあったベンチに女の子を座らせて、俺は店の中へ。
女の子受けしそうな飲み物を適当に引っ掴んで、購入する。
その時には授業の事なんて頭から抜けていた。
まあ、泣いている女の子を置いていくわけにもいかないし。

会計している間にもしかしたら帰ってるかも、と思ったけどそんな事は無かった。
自動ドアを開けたら、さっきと変わらない様子でちょこんとベンチに腰を下ろしている。

「はい、これ。紅茶で良かったら」

女の子の顔の前に先程購入したペットボトルを見せると、驚いたような顔をして女の子が首を横に振った。

「頂けません、大丈夫ですから」

俺から顔を逸らしてそう言う女の子。
顔色が悪いような気がする。体調でも悪いのかもしれない。
余計に受け取ってもらわないと困る。

「俺、紅茶飲めないんだ。だから、受け取ってもらわないと捨てる事になるよ?」

実際俺は紅茶がそんなに好きではない。
飲めない事はないけれど。
捨てる、というのは少々大げさだったとは思うよ。

俺の言葉に渋々といった感じで、やっと女の子はペットボトルに手を伸ばした。
小声で「…ありがとうございます」と零した。

女の子の隣に腰を下ろして、俺は自分用に購入したジュースに手を付ける。
ちらりと女の子を見ると、ペットボトルの蓋を開けようとしているけれど、上手に開けられない様子が見えた。
あ、まだ手が震えてる。

「そんなんじゃ開けられないでしょ。貸してくれる?」
「……すみません」

申し訳なさそうな声とともにペットボトルを俺に差し出す女の子。
うっひょほお!! か弱い女の子じゃん。 姉ちゃんとは大違いだ。
いつの間にか頬が緩んでいたみたいだ、それに気付いた女の子の目が一瞬細められる。
あ、やべ。

気を取り直してペットボトルの蓋に力を入れる俺。
あっという間に蓋は開いたので、それをそっと女の子に渡した。

「どうぞ」
「ありがとうございます」

小さな口がそっとペットボトルの先について、ゴクリと一口。
水分を補給しただけなのに少しだけ安心した。
なんせ、道端でヘロヘロになっていたからね。

見た感じ歳は同じくらいだけど。
平日の昼近い時間。俺も人のことは言えないけれど、そんな時間にウロウロしているんなんて、珍しいな。
あ、そうだ。



「ねえ、名前教えてよ。何ちゃん? 俺は我妻善照って言うんだけど…」



そう言って女の子に笑いかけると、女の子は持っていたペットボトルを地面にボトリと落としてしまう。
先程以上に手が震えていて、まるでお化けをみたような顔でこちらを見ていた。

「あが、つま…?」

ぶるぶると震える唇が俺の名前を紡ぐ。
そんなに驚かれる名前だっけ?
まあ、珍しい名前だとは思うけどさ。

落ちてしまったペットボトルをひょいっと拾い、それを女の子に差し出す。
けれど、女の子はそれを受け取ろうとしない。
きっと俺の頭の上には沢山の疑問符が並べられていることだろう。

え、何その反応。



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