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 死に際の絶叫が聞こえた。あらゆる方角から聞こえてくるそれが、親友のものだと信じたくなかった。鉄臭さと焦げ臭さ、人間の肉が焼かれる匂い。死臭を振り切って、千切れそうな足を動かす。興奮で顔が燃えるように熱い。心臓が頭の中で波打つ。とん、と力を込めたら彼女は転けた。親友のようになりたくなくて、地面を見つめてひたすらに走った。石畳の地面は真っ赤で、食われる瞬間や踏み潰された人の体、首や内臓がデコレーションされていた。なりふり構わず、助けを求めた。胃液で酸っぱい喉を張って、悲鳴をあげ続ける。骸を飛び越えて、足がもつれる。地獄に閉じ込められてしまったのか、地面に転がっている肉片と飛び出た目玉が現実が幻覚か分からなくなった。

「おい!子供が残ってるぞ!!」

 薔薇の紋章を背中に背負った人がフラフラと走っているわたしを見つけてくれた。わたしを脇腹に抱えて大人たちを掻き分けると、出航しかけていた船に乗せる。地獄を見て光を無くした住民たちの一員として、船に乗った。見る影もなくなった故郷が遠くなっていく。死が、遠ざかっていく。
 助かった。心の中でつぶやいて、安堵する。じわりじわりと恐怖心が薄れていった。足の痛みに生の喜びを感じる。血が流れ出して、痛いけど。わたしは生きてる。遠くで壁が壊された時みたいな破壊音が聞こえた。悲鳴、嗚咽、ざわめきが一層大きくなる。あたしは耳を抑えて膝を抱えたまま蹲った。もう、何も聞きたくない。助かったんだから、もう。あたしには関係ない。

「駆逐してやる」
 
 すごく遠くで声がして、夢から覚めた。悲しみに暮れる船で、自分だけが喜んでいる。わたしは、一人。親友の命を踏み躙って、生き残ったのだと言うのに。自覚すると、隣の子から離れた。隣の子には腕がない。また隣は何かをひたすらぶつぶつと呟いていた。みんなと自分には、決定的な違いがある。みんなは被害者で、わたしは親友を殺した、加害者だ。すとん、と納得がいったような気持ちになる。
 親友との思い出がフラッシュバックする。瓦礫に埋もれていたわたしを助けてくれたのは、親友なのに。脳内にこびりついたのは、彼女の体を押した瞬間の表情。命の恩人をこの手で殺した。今まで見たこともない、驚きに満ちた表情だった。頬を叩く。押した時の手の感触。手がかゆい。
 
「ゔあ…」

 この悪魔め。出て行け。わたしの中から出て行け。周囲を見回す。ひしめき合う住民を押し退けて、船の淵から身を乗り出す。広がるのは真っ黒な水。前方に巨人の楽園が見えた。死臭と川の香りが背中を撫でる。わたしは地面から爪先を離して、水を覗き込んだ。耳元でドクドクと絶え間なく音がする。体が宙に浮く感覚。手に力が入り、ひっくり返って転がった。

 死にたくない。

 喉を締められているみたいにうまく呼吸ができない。わたしは悪魔を飼っている。卑怯者だ。鉛のような体を動かし、大声を上げていた子供に近づく。すかさず、真っ赤な腸を首に巻きつけた女が腕を押さえつけた。骨が折れそうなほど痛い。鋭い眼光が此方を冷ややかに見つめている。汗が出てきた。目線が定まらない。息ができない。いますぐにでも頭を地面に擦り付けて謝りたかった。

「わ、わたしは、とも、だちを、親友を殺しました」

 沈黙が辺りを支配した。と言っても、泣き声やうめき声はそのままに。わたしは懇願するように手を組んだ。澱んだ緑色の、瞳がわたしを、見ていた。

「は、何言ってんだ。おまえ…」
「殺した!わたしのために殺した!!ごめんなさい!死にたくなかった!ごめんなさい!」
「……お、落ち着け…」

 喉を枯らしながら縋り付くと、腹に鈍器で殴られたような衝撃が走った。そばにいた女の子がわたしを睨んでいる。その瞳を目に映した瞬間、どうしようもなく泣きたくなった。黒曜の瞳だ。あの子の色だった。女の子を頭からつま先まで眺めて、足の力が抜ける。その隙を見て、女の子はもう一人の子を引きながら距離を取るようにして船の反対側へ行ってしまった。去り際に、冷たい目が地面で膝をついているわたしを射抜く。ごめんなさい、謝罪の言葉は誰にも聞かれることなく、溶けた。

 船から降ろされた先に、安楽などなかった。道端では怪我をしている人がたくさんいる。白い顔をして空を見つめていた。ぶつぶつと言った声や時折、奇声も聞こえてくる。耳を塞ぎながら、父の姿を探した。大好きな父なら、全部話してもわたしには知らない理屈をつけて仕方なかったと言ってくれるはずだ。そう、救いを信じていた。

「ああ、生きてたのね!」

 聞き覚えのある声がわたしの名前を呼んだ。一番出会いたくなかった人物に、駆け出して逃げようかとも思った。気が動転しそうなのを抑えるように、呼吸がしづらくなる。こちらに来る二人の表情は、親友に似ていた。

「足を怪我してるわ。平気なの?」
「だい、じょうぶ」

 屈んで怪我の具合を見てくれる姿に、ヒリヒリする足を隠す。親友は母親似だと言っていた。わたしもそうだと思っている。美人でも物腰が柔らかく、怒っているところは一回も見なかった。たまに作ってくれるスープが絶品で、わたしはよくそれを強請る。嫌な顔ひとつしないで作ってくれる姿に、母親とはこんな存在なのだろうかとよく想像していた。彼女のような人が、わたしの母になってくれればいいな、とも。

「わたしの、ぱ、パパは…?」
「まだ見てないんだ。ほら、一緒に探そう」

 手を差し伸べてくれたのは、親友の父だ。こういう風に目元を下げる姿が、親友にそっくりだ。行く先がなかったわたしの父を、隣の空き家に住まわせてくれた人だった。

「家は…もう、半分なくなっちゃった……」
「そうか、辛かっただろう」

 赤の他人であるわたしに、慈しむ言葉をかけてくれる。それが、どうしようもなく苦しくて。真実をぶちまけたくなった。頭を優しく撫でられると、言葉が喉をつっかえて出なくなる。苦しさで溺れてしまいそうだった。

「それで、ノエルはどこにいるの?」

 その言葉は、死刑宣告のように響いた。左右を見回して、不安そうな表情で我が子を探す素振りを見せる。父親を見ると、二つの目玉とかち合う。希望を見出すようにわたしの言葉を待っていた。体が、凍りついて動かない。あの子が絹糸で首を絞めている。言えばいいのに。言わなくてはいけないのに。

「……の、ノエルは……わたしのせいで、巨人に……」

 伝えたのは事実だけで、わたしは真実を言わなかった。二度目の罪を重ねたのだ。二人が息を呑んで、瞬きしない瞳がわたしを凝視する。優しい二人とは思えない、冷たい視線を向けられて、ひっと声を上げてしまう。

「そうだったか…教えてくれてありがとう」

 瞬きをすると、さっきまでの視線が嘘みたいに思えた。悲しさを滲ませた父親は、嘘つきの頭を撫でる。なんてことをしてしまったんだろう。膝をついて許しを乞うべきはわたしなのに。予想していたことは何一つ起こらなかった。親友の優しさの片鱗を見て、涙が溢れる。

「どうして、あなたが生きているのよ」

 地を這うような声が聞こえた。聞き間違いなら良かったのに、母親が唇を変色させるほど噛み締めて憎悪を向けている相手は紛れもないわたしだ。首元を掴まれて、宙吊りにされる。それを止めようと割って入ったのは父親だった。

「やめろ!」
「どうしてあたしたちの子が死ななくちゃならないの?!それも、この子なんかのせいで!」

 開放されて、咳をしながら見た親友の母親は、わたしが見てきたどの表情にも当てはまらない顔だった。暴れている親友の母親を、周りの人間が止め始める。子を失った母の心からの苦しみが聞こえてきた。まるで、一枚壁を隔てているように呆然とその光景を見る。わたしが背負った罪の大きさを、やっと自覚した。

「あんな家族、住まわせなきゃよかった!」

 魂を失った人形のように、体を揺らしながら逃げ出す。静止の声が低く唸る罵声に聞こえた。わたしはまた、罪から逃げ出した。
 視線を振り切るように走り、人だかりが目に入る。わたしという存在が溶けて消えるように人混みへ体を寄せた。大人たちの身体に押し潰されながら進む。駐屯兵団の声がすごく遠くに聞こえる。足を踏まれた、肩が顔面に当たって瞼の下に星が舞う。罵声が飛び交う。怒号が聞こえた。食料を求めて一心不乱に波が経つ。混乱の渦に子供一人が向かうのは自殺行為に等しかった。優しそうな大人に声をかけて、人混みをくぐり抜けようとする。

「あ゙ぁ!」

 二倍ほどある足に踏まれて、悲鳴を上げた。下から上に耐え難い激痛が走る。足の指がズキズキと波打っている気がする。ここで止まるわけにはいかない。人ごみをかき分けて、必死に食らいついて、先頭に辿り着く。列の先は配給所だった。
 食料を配給している駐屯兵団の兵士を見上げる。疲れを滲ませた兵士はわたしを見るや、自分が酷く傷つけられたような痛々しい顔をした。

「はい。次」

 目一杯に伸ばした手のひらに載せられたのは、手のひらの半分しかない粘土のような見た目をしたパンだった。中はスカスカでとても軽い。呆然とする横で突き飛ばされて、尻餅をつく。睨まれる前にそそくさと逃げた。

 必死に頑張って手に入れた戦利品を落とさないように、奪われないように抱えながら歩く。数ヶ月前まで住んでいた故郷は様変わりしていた。華やかだった路地に座り込んでいるのは、虚な目をした避難民たちだ。辺りにいるのは、巨人に町を蹂躙された被害者たち。大切なものを奪われた人間。同じ見た目なのに、まるで違う生き物のようだった。わたしは、この人たちと違う。親友を巨人に捧げて生き残った加害者だ。居心地の悪さを感じながらも、どうにか人ごみをかき分けて落ち着けそうな空き地へ向かう。今はただ、体を休めたかった。
 妙にこぎれいな格好をした同い年くらいの子が目にとまる。酷く澱んだ蒼色で周囲を警戒するように見ては、暗い顔をして俯く。後ろに組まれていた手がかすかにお腹をさする。その動作で足がピタリと動かなくなった。

 親友ならどうするだろう。ここに、親友がいれば、どうするだろう。わたしが殺した親友がいれば、あの女の子はパンを食べられるだろう。人混みに再び突っ込んでもう一つパンを貰い、帰ってくるのだろう。ノエルの母親も悲しまなくて済んで、あんな風に怒ることもなかっただろう。
 今更になって、罪の意識が迫り上がって来る。おぼつかない足取りで子供の前まで行った。

「ね、…ねえ!これあげるよ」
「は…」

 わたしができるのは、偽善。補うことだ。

「いっしょにたべよう。一人じゃさびしいよ…ね」

 罪を償え。

「…あたしは、ノエル・ジンジャー。あなたは?」

 壁が壊された日。わたしは、生と引き換えに醜い悪魔になった。臆病で卑怯な娘。

――は死んだ。