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 とても、懐かしい夢を見ていた気がする。

「ふわぁ」

 体の重さと目の痺れが寝不足を訴えているものの、体を起こすほかない。欠伸を噛み殺しながら、お世辞にも布団と言えないような布切れの上で伸びをする。隙間だらけの天井から顔を覗かせる朝日があたしを照らしていた。暖かい布に纏わりついてくる振り切り、周りを見回す。一緒に毛布を並べていたはずの三人の姿は見当たらず、サッと顔を青くして毛布をかき集めた。手触りの悪い毛布がチクチクと指に刺さる。開拓地の布団にはもうすっかり慣れてしまった。地面で寝るよりも幾らか良いはずだと信じているけれど、効果のほどはわからない。誰かがあたしにかけてくれたらしい毛布もまとめて待ち、枕元に置いておいた包みを引っ掴む。
 開拓地の朝は早い。厳しいノルマのせいで朝から晩まで働かなくちゃいけない他に、ウォール・ローゼ奪還作戦に投入されなかった老人が残っていることもだろう。起きてきたばかりの顔見知りに挨拶しつつ、毛布を片付けて小屋を飛び出した。

「あっ!」

 こんな大切な日に寝坊するなんて。手に下げている包みを用意するので手間がかかったとはいえ、とんだ実態だ。まだ迎えの馬車が来ていないことを祈りながら、地面を蹴飛ばして駆けた。
 訓練兵団には規定さえクリアすれば誰でも入れる。来年があるとは言え、一人遅れて入るのは極力避けたい。三人仲良く入団したいと願うのは悪いことではないはずだ。だから、まだ馬車に連れてかれていない三人の影が目に入って声をあげてしまった。

「みんな、おはよう!」
「やっと起きたか」

 包みを落とさないように持ち直してから手を振れば、ライナーがあたしが来るのを分かっていたかのように振り返る。

「もう、ひどいよ。どうして起こしてくれなかったの」

 馬車を追いかける必要がなくなった安堵と相まって、やりどころのない不満をぶつけてしまう。まさか遅れるはずがないと思っていたけど、心配が杞憂に終わってよかった。

「一人だけ置いていかれちゃうところだったよ」
「お前があんまり気持ちよさそうに寝てるから起こすのも忍びなくてな」

ライナーは世話焼きで怪我がすっかり治った今でもあたしに気を配ってくれる。いつもなら感謝しているところだけど、昨日の件もあって別の意図があったんじゃないかと勘繰ってしまう。

「まだあたしが入団するの反対してる?」

 訓練兵団へ入団するつもりだとハッキリ告げられたのは数ヶ月だ。あたしにしてみれば、元より入団するつもりだったので、喜ばしい知らせだった。事情がわからないライナーたちからしたら、無理しているようにでも見えたんだろうか。間髪入れずに自分も入団すると伝えたら、みんなが顔を曇らせてしまった。

「ベルトルトはいいって言ってくれたのに」
「ああ、うん……」

 前から訓練兵団を志していたこと、絶対に着いていくこと。硬い意志を熱弁してベルトルトとライナーの二人は説得したつもりだったのに。突然火の粉が降りかかったベルトルトが歯切れの悪い言葉で同意する。

「俺だってもう止めやしない。危なっかしいのは変わらんが」

 この期に及んでライナーにまで止められたらたまったものじゃないと考え過ぎていたらしい。「ごめん」朝から問い詰めてしまったことに項垂れて謝罪を告げれば、ライナーは笑い飛ばしてくれた。

「俺よりも気にするべき奴がいるんじゃないか。アニは変わらずみたいだぞ」

 ライナーが顎で指した方向にいるのは、唯一説得できなかった人物だ。あたしが変わるきっかけとなった人であり、三人のうちの一人。あたしの言葉では兵団の馬車が迎えにくるまでに納得させられなかった。

「ありゃあ、着くまでに説得は無理だろうな」

 あたしたちの会話は聞こえているだろうけれど、一歩離れて変わらずに腕を組んでいるアニの横顔を眺める。自分も訓練兵に志願すると話してから、ここのところずっとこんな感じだ。

「馬車の中で説得してみるかあ……」
「やめとけ。馬車の外に放り出される」

 「だよねー」アニのいびりに慣れている流石のあたしも走っている馬車から転がされたくない。終わりのない雑談を続けていると、あたしたちに耐えかねたのか、珍しくアニが割って入ってきた。

「分かりきってることをお喋りするより、あんたが徹夜してまで用意した物があるんじゃないの」
「あ!そっか」

 すっかり思考から転げ落ちたものを冷静なアニの一言が掬い上げてくれた。急いで存在を忘れかけていた包みを解いていく。
 
「はい、これは行きのお弁当!最初にアニ、この大きいのがライナーでこっちがベルトルトね!」
「それ、弁当だったのか。ありがとな」
「……だろうと思った」
「ちょ、待って待って!ストップ!このお弁当は前みたいに徹夜とかしてないから!」

 慌てて弁解し、大丈夫と胸を張ってみるも、アニに額を小突かれてしまった。アニの小突くは強めのデコピンみたいなものだ。前回はお弁当の中身を凝ったが故に徹夜して足蹴りされたから、少ない食材をなんとか見栄え良くしたのに。ひどい仕打ちだ。

「いったぁい…」
「そうじゃない。こんなに世話焼いたって意味ないでしょ、無駄なことしないで」
「ま、まあまあ。せっかく作ってくれたんだし…ね?」

 しゃがんで痛みに悶絶するあたしを見下ろす目は鋭くて顔をあげられないでいると、困り顔のベルトルトが仲裁してくれた。好機を逃さず、顔を上げてベルトルトを前に出して盾にするように抱きつく。

「ベルトルトはあたしの味方だもん!」
「邪魔。退いて」

 「いい加減わからせる」不穏な言葉を発して握り拳を作ったアニを見ないようにベルトルトを前に押し出す。弱々しい声で慌てているのもお構いなしに、声援を送った。

「いけ!ベルトルト!勝て!」
「えっ、ちょっと…そんなの無理だ。お、女の子なんだからもうちょっと離れてよ……」
「ベルトルト、やっちゃえ!」

 アニをビシッと指差す。するとまたベルトルトが狼狽えるので面白い。痛みも忘れて目の前の大きい背中に指示を飛ばす。ギャーギャーやり合っているあたしたちをライナーが捲し立てる。
 
「お前にもっと胸がありゃ、ベルトルトも困んないで済んだのにな」

 あたしにとってすごく屈辱的な言葉が聞こえたと同時にライナーの体が地面に叩きつけられる。もちろんあたしではなく、アニの仕業だ。

「わぁん!大好き」

 調子良く飛び出してアニの筋肉質な腰に飛びつこうと試みる。手が触れるか触れないかくらいのところで、はたき落とされてしまった。前に重心が傾いた体と地面がぶつかりそうになる所を、よろけながらもどうにか立て直す。

「あっぶな…」
「チッ」
「わ、舌打ち!ベルトルト、アニが舌打ちしたよぉ」
「昨日もしてたよ…」

 茶番に疲れ始めたベルトルトが力無くそう告げた。確かに、アニの舌打ちはきっとあたしが三人の中で一番聞いている。あれ、なんだか自分で言って悲しくなってきた。

「早く、もう馬車が来てる」

「うわぁーん」と両手もつけて鳴き真似をするあたしに脇目も振らず、アニが歩き出す。手の隙間から様子を確認すると、その手にはしっかりとお弁当が握られていた。単純なあたしはたちまち気分が良くなり、アニの言葉へ元気よく頷く。

「うん!ベルトルト君、向かいましょ」
「俺も呼んでくれ…」

 ベルトルトの手を握って、腕を絡ませる。スキップしながら歩き始めると、腹に手をやったライナーが起き上がる。昔から背の高かったベルトルトに見下されるのはよくても、つい最近急に成長したライナーに見下されるのはまだ慣れない。
 
「あ、ついでにライナー」
「俺は呼び捨てかよ」

 揶揄いすぎてしまったと思っているのか。ライナーは心なしか申し訳なさそうに見える。アニの足払いで痛めただけかもしれないけれど。
 
「なに?不服?じゃあ、すけべくん」
「ぷっ……」

 その程度であたしの鬱憤が晴れるはずもない。ベルトルトが吹き出した。突然の裏切りにライナーはショックを受けた顔をした後、諦めたように答えた。

「もう好きにしろ」
「そう言われると冷めるよね」

 諦めの色を滲ませ、お手上げだとでも言うように両手をあげたライナーへ言い返す。本当は胸のことなんてどうでもいい。ライナーの反応が面白くて仕返しついでに揶揄い返してしまうのだ。茶番は迎えに来た訓練所の人から仲良く三人怒られるまで続いた。

――――――
 
 ノエルは小さい頃から調査兵団に行くと話していた。ママやパパに話したら止められるからって。わたしとあなただけの、二人だけの秘密。

 乗り心地の悪い馬車の荷台で二晩過ごして、やっとのことで荷解きを終える。ひと息つく暇もなく、時計は入団式の時刻を示していた。新入生が列を成し、教官が入団式という名の揺さぶりをかける。その怒号が聞こえる度、肩を震わせていた。痛そうな音がすれば意識を逸らし、耳元で鳴る心音に集中する。汗ばんだ手を握り直していたら、悪人面の教官が目の前にいた。

「シガンシナ区出身!ノエル・ジンジャー!」

 心臓の位置を確認してから、敬礼をする。目と鼻の先にいる教官は鬼のような形相であたしを見ていた。全てを見透かしているような心地がして、落ち着かない。あたしが小さく震えてしまっているのも気づかれているだろうと思った。

「ほお、貴様は何をしにここへ来た」
「この手で、全人類を救うためです!」

 しっかり言えたことに安堵している間もなく、教官の怒号が聞こえる。鼓膜がビリビリと痛むのがわかった。

「我々は貴様のような家畜に救われるほど落ちぶれていない!口だけの偽善者を目指す豚はこの場にいらん!即刻立ち去れ」
「い、嫌です!」
「口ではなんとでも言える。次に同じ言葉を発したら、開拓地に送り返してやる」
「はい!今後は口にしません!」

 喉が痛くなるくらい叫んで、教官の指示に従う。みんなより一層強く怒鳴られたからか、暫くは耳が痛かった。
 
 入団式を一通り終えて、宿舎に向かう。出身地ごとに振り分けられているのだろうか、アニとは隣のベットだ。離れ離れにならなくて済んだのが嬉しくて、へにゃへにゃ笑ってたら軽くお尻を蹴られた。
 自己紹介なりでワイワイしている輪の中に、赤いマフラーをした無口そうな黒髪の女の子が引き込まれていくのを遠目に見ていた。あたし、だったら飛び込んでいくだろうけど、なんだかそんな気分になれない。脳内で教官の言葉が反響してそれどころじゃないのだ。ベッドの上で耳を押さえて体育座りしているあたしをアニが見下げて言った。

「あんなバカ正直に言ってどうするのさ、バカ?」
「バカかも…」

 アニの言う通りかもしれない。あの子がよく言っていたとは言え、偽善者と思われても仕方ない。キース教官は調査兵団にも所属していたと聞くし、壁外にも出ていない乳臭いガキが言う戯言だと思っただろう。

「…あんたが全人類なんて、救えるはずないでしょ」
「救うよ」

 顔を上げて、アニの目を見る。あたしが好きな深い蒼は困惑の色を滲ませているように感じた。

「みんな、助ける」

 何故って。あの日助かるべきはあの子だったから。わたしが殺した小さい命は調査兵団できっとたくさんの命を救った。その分の命には届かなくても、この命が尽きるまで。

「…ねえ」

  パシン、と乾いた音が鳴った。色を失った蒼が愚か者を心底忌み嫌っているようにあたしを見下ろす。賑やかな笑い声がやけに遠く聞こえた。

「目は覚めた?……鈍臭いアンタには無理に決まってる。身の程を弁えな」
「…は、はは!愛の鞭ですなー……そうするよ」

 ヒリヒリとした痛みを訴える頬に、手を添えながら言うけれど、アニの表情は変わらなかった。あたしは背を向けて出ていってしまうアニを止めずに、ただ眺める。
 
「アニ…ごめんなさい」

 アニが出て行った部屋の中で、わたしはまた一つ増えた罪を告白した。みんなを救うために生きる、それはあたしの夢。変えようがない。でも、アニの言う通り鈍臭いわたしが救うと曰うのすら烏滸がましいくらいだ。
 いつか、あたしは死ぬだろう。死んだら、誰か泣いてくれるだろうか。ノエルのことだ。たくさんの人が泣いてくれるに違いない。不思議な気分だ。未来を想像して安心する。大丈夫。
 
 このままなら、ノエルは救われる。
 悪魔は誰にも知られず、惜しまれず、ひっそりと死ぬ。

「ごめんね」

 口に出した言葉が、どちらだったか。自分にもわからない。