◇8
私は肉盾から手を離し、無言で奥の部屋に戻る。
大した距離はなかったが、次第に駆け足になる。
項垂れる中也さんを見るだけで呼吸が止まる。
別に死んだ訳じゃないし、見たところ怪我の程度も軽いことは頭では理解している。
「中也さんッ、中也さん…ごめんなさい、私」
中也さんを抱き締め謝罪する。
“自称右腕”が聞いて呆れる。
「なまえ、大丈夫だから。落ち着け。」
中也さんの言葉でぐっと涙を堪える。
「すみません、今拘束外しますね。」
「いや、それより俺の内衣囊の紙を出してくれ。」
え、と動きが止まる。内衣囊?
「え、お胸をお触りしていいというご褒美ですか?」
「紙出せって言ってンだよ、誰も触っていいとは言ってねぇ!」
「ですよねー、でも…今なら拘束されて身動き取れない中也さんに彼是し放題…ふふ」
眉間に皺を寄せる中也さんに体を摺り寄せ頬を包む。
「後ろで、立原が見てンぞ。」
「お、俺は別に!ナニも見てないっす!」
舌打ちをして振り返ると、顔を真っ赤にした立原が股間を抑えて首をぶんぶんと振っていた。
「どこ抑えてるのよ、立原のえっち。」
溜め息を吐いて中也さんに向き直る。
「内衣囊でしたね、失礼しまーす。」
そっと中也さんの胸元に手を差し入れると紙が手に触れたので、それを取り出す。
三つ折りになった紙だった。
「これですか?」
「おー、それ読んでみろ。」
中也さんに促されるまま、紙を開いていくと【辞令】という文字が先ず目に入る。
続いて達筆な字で書かれた自分の名前、そして“幹部補佐を命ずる”という文言。
最後には首領の名前と印鑑が押印されていた。
意味が解らな過ぎて思考が止まる。否、辞令の意味は解っている。
そうじゃない、そうじゃなくて…
「昇進試験合格だ、なまえ。」
頭に温かい手の感覚がした。中也さんが頭をぽんと叩いたのだ。
「え、あれ、中也さん、手…え?試験?」
私は未だ拘束を外していないし、立原も後ろに居る。理解が追い付かず中也さんを見つめる。
屹度、私史上最高に真ん丸のお目々になっていることだろう。
「この程度の奴等相手に、俺が下手打つ訳ねぇだろ。」
中也さんの言葉に、外された手枷を拾い上げてみた。
「拘束具も対異能力者用の物ではなく、唯の手枷…?この組織との交戦は仕組まれていた……?」
手首を擦りながら、にやりと悪そうに中也さんが笑う。
「最初は話し合いでの取引を進めてたんだが、どうも焦臭え奴等だったからな。
丁度佳いと思って吹っかけたら、この様だ。」
思わず手に力が入り、辞令に皺が寄る。
「私を試す為だけに、中也さんがこんな奴等に殴られ拘束されたってことですか。」
「まァ、いつでも拘束からは逃れられたが、手前の戦いっぷりを間近で見るのも悪くねぇと思ってな。中々痺れたぜ?」
余裕の笑みを浮かべる中也さんに言いたい事はいっぱいあったが、言葉は喉を越えられず、中也さんの胸を一度だけドンと叩いた。
「…狡いです、そんな事言われたら、怒れないじゃないですか。」
「ああ、怒る必要なんてねぇさ。喜べ。」
「では御祝いに私とお付き」
「付き合わねぇよ、莫迦。」
中也さんは素敵に笑うと、徐ろに上着を脱いで私の肩に掛けてくれた。そう言えば下着姿だった。
脱いだ服が銃撃戦の犠牲になっていない事を祈っていると、中也さんは一億円が入ったアタッシュケースを立原に持たせていた。
「…え、という事は、首領も共犯!?あんな脅し方しておいて!?」
「おー、俺が話し持ち掛けたらノリノリで了承してくれたぜ。」
「ノリノリ、ですか……」
それを聞いた私は、苦笑いする他なかった。
◇
その日の夜は、ささやかななまえの昇進祝いが開かれた。
中原の行きつけのバーのカウンターで、なまえを中心に中原と立原とで挟むようにして座る。
“今日は呑む”と宣言していたなまえは、次々と酒杯を空にして言った。
「だから私は最初っから可笑しいって!抑々、中也さんがそう易々と捕まる訳がないじゃない!」
カウンターを叩きながらの演説が始まる。
酒に弱い訳ではなかったが、祝い酒の筈が自棄酒のような飲み方をしていた為、序盤にしてなまえは既に酔いが回っていた。
「だいたいねぇ、その辺の睡眠薬の類が効かないのは実証済みなんだから!」
「おい、なまえ。手前はもう二度と俺の珈琲淹れなくていいからな。」
とんでもない事を暴露し始めたなまえに、中原が真顔で命じる。
「それに、何、一億って。中也さんの命がそんな激安価格な訳ないでしょうが!
そんな安価なら私が現金一括払いでお買い上げしてるっての!」
怒りに震えながら力説するなまえだったが、思考が可笑しなところに飛んでおり、顔を抑え溜め息を吐く中原を見て立原が宥める。
「なまえ、解ったから、少し落ち着こうな。中也さんもドン引きしてるぞ。」
然しなまえの勢いは止まらず、手にしていた酒杯を大きく傾け飲み干すと、マスターにおかわりを要求していた。
透かさず立原が小声で水でいいと伝え、マスターも了承した。
「なまえ、飲み過ぎだろ。明日も任務あるからな。」
中原の声に反応したなまえは、先までの怒りは何処へ隠したのか、きらきらとした表情で中原を見つめる。
「あい!明日も頑張りますので私とお付き合い」
「は、しねーよ。」
「うう…やっぱり塩対応…でも、でもそこがまた好い。」
今度はめそめそと泣きながら両手で顔を覆うなまえ。
ころころと表情を変えるなまえに、立原が酒杯を手渡す。勿論、中身は唯の水である。
それを一気に呷ると、骨が抜け落ちたかのようにへなりと立原へ凭れ掛かる。
「みっちゃあ〜ん」
立原は慣れた手つきで、泣きつくなまえの背中をぽんぽんと叩きあやしてやる。
「…立原とみょうじは同期だったか。」
二人の遣り取りから目を逸らし、葡萄酒を一口含んで中原が問う。
妙に距離が近い事が気掛かりの様子だが、それを隠している風だった。
「そっす。当初からなんか気が合って、昔からよく二人で呑んだりしてて。
今ではスッカリ此奴のお守り役ですよ。」
苦笑いながらに言う立原だったが、中原の目には満更でもなさそうに映った。
「んー…みっちゃん、おねむ…」
「おー、じゃあまた俺ンち来るか。」
「は?」
立原の首筋に擦り寄り甘えるなまえに、自宅へ行くことを提案した立原に思わず声を上げたのは中原だった。
「またって、立原…」
「え、なんすか。」
「いつも酔い潰れたみょうじを持ち帰ってンのか…?つか、若しかしてみょうじと付き合ってンのか?」
開いた口が塞がらない様子の中原に対し、立原はきょとんとしている。
「いや、持ち帰るって。なまえと俺が付き合ってる訳ないじゃないスか。
なまえが中也さん命なの知ってるでしょ…唯、連れ帰って介抱してやってンすよ。」
何をそんなに驚いているのか、と答えながら、中原が言わんとする事に気が付いた。
「あー、確かになまえ可愛いから、ヤバい時はありましたけど、手は出してないっす!」
あからさまに不機嫌な顔になった中原を不思議そうに眺めていると、徐ろに財布を取り出した。
「仕様がねぇから、今日は俺がみょうじを送る。」
そう言いながらマスターへカードを手渡す。
「え、いいっすよ、ゴチになった上に、中也さんにそんなことさせたらなまえに殴られそうだし。
それに、こんな状態のなまえを一人で家に置いておくのもなんだし、“いつも通り”俺が此奴連れて帰りますから。」
未だに立原に擦り寄ったままのなまえを抱え、中原の提案に拒否を示した。
「俺が、みょうじを、預かる。いいな。」
「…ハイ。」
中原に凄まれ断れる筈もなく、大人しく頷く立原。
「おら、なまえ、行くぞ。」
「ふあ?はぁーい。」
既に半分夢の中なのではないかというくらいふわふわとしているなまえの腕を掴み、無理矢理立たせた。
ふらつきながら立ち上ると、足を縺らせよろけるも、中原が腰に手を回し支えてやった。
その後ろ姿を見送った立原はマスターに酒を注文する。
支払いは中原の“ツケ”とまで確りと。
「あの人も素直じゃねーな。」
溜め息を吐きながら、頼んだ酒を待った。
いくら此方で力んだって、
天気と疑いばかりは先方からはれるのだ。
尾崎 紅葉 |
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*confeito*