◆9
次の日の朝、なまえが目を醒ますと見知らぬ天井、見知らぬ広い寝台、見知らぬ部屋に居た。
然し、仄かに香る匂いには馴染みがあった。
息をゆっくりと吸い込み、記憶を辿る。
昇進祝いの酒の席で、いつもの如く酔い潰れ、その後の記憶はない。
その場に介抱役の立原がいたことで、安心しきっていた。
屹度またいつもの様に、立原の家に連れ帰ってくれるだろうと。
然し、見知った立原の家でないということは、十中八九、中原の家だという答えが導き出される。
枕に顔を沈め、心の中で発狂する。そこで、ふと思う。
若しかして、昨日、一線を越えてしまったのではないか、と。
羞恥よりも、後悔が押し寄せる。
記憶がないなんて、なんて勿体ないことをしたんだ!と自分自身に腹を立てたのも一瞬で、それはないかと思い直す。
衣服も昨日のままだったし、抑々中原はそんな節操のない事はしないだろうと思ったからだった。
自分は中原にとって“大勢いる内の割と近い部下”であり、交際の申し出は見事なまでに拒絶されている。
本人公認の片思いなのだ。
中原は部下思いだ。部下であるなまえの気持ちを無碍にはしない。
交際の申し込みにも、必ず返事をする。
そんな相手と酔った勢いで関係をもつなんて無責任なことは、中原はしないという信頼があった。
軽く息を吐き、寝室を出るとソファに横たわる中原を見つけた。
いつも高級スーツに身を包み、身だしなみには人一倍気を遣っている中原が部屋着で寝ているという光景だけで、なまえは立ち眩みを起こす。
取り敢えずこっそり写真に収めた。
それから直ぐ横に膝を着き、ズレたブランケットを掛け直す。
艶やかな髪からのぞく寝顔は気が抜けきっていて、普段より幼く見えた。
「ふふ、可愛い中也さん。」
そこでなまえは息を飲む。
「も、もも若しかして、今なら、ちちちちちゅーやさんに、ちちちちちゅーしてもバレないのではッ!?」
赤面しつつ、わたわたと暴れた後、深呼吸をした。
狙いを定め「んー」と言いながら顔を近付けていく。
目を固く瞑ってはいたが、もう少しで目的地へ到着すると思われた時、なまえの耳に届く、押し殺したような笑い声。
「ぅ…くく、なまえ、心の声ダダ漏れ過ぎ。」
ぱちりと目を開くと、柔らかそうな髪が微かに揺れていた。
蒼い瞳と目が合うと、人差し指で額をやんわり押し返される。
「はよ、なまえ。」
石にでもなってしまったかのように、微動だにしないなまえ。
どうやら呼吸も止まっているようだった。
「…なまえ?おい、どうした?」
中原が不思議そうになまえの顔を覗き込むと漸く息を吹き返し、その瞬間にずざざと効果音付きで後退る。
「お、お起きてたのですか!?」
「や、今起きた。」
中原は起き上がりソファに座り直すと、腕を上にあげ伸びをした。
「朝飯作ってやるから、顔洗ってこいよ。」
何気ない中原の一言で、なまえの顔からは血の気が引いていく。
「滅相も御座いませんッ!恐らく昨夜は多大なご迷惑をお掛けした挙句、中也さんの寝台を我が物顔で占拠し、一夜の宿をお借りしただけでも打ち首ものだというのに、その上朝食までなんて!
え、然も中也さんの手作りとか、神のみが食すことが許された、あの伝説のヤツですか!そんなの勿体なくて食べられない!神棚に祀らせて下さい!
あと遅くなりましたが、おはよう御座いますッ!」
「うっせー、打ち首とか祀るとか何訳解んねえこと言ってンだよ。さっさと顔洗ってこい。」
中原に睨まれ、なまえは逃げるように洗面所へと滑り込んだ。
無駄なものが置いていない、清潔感溢れる洗面台の鏡を見る。
真っ赤になって困り果てた様な顔の自分と目が合った。
「はあ…心臓がいくつあっても足りやしない。中也さん格好良すぎ、死ぬ。もう何回か死んだ。」
「あ、なまえ。」
「ひぇえ!はいっ」
ひょっこり顔を出した中原に、過剰なまでに反応をするなまえは、また呼吸が止まる思いをする。
その様子を不審に思いながら、棚を指差す中原。
「そこの棚に新しい歯ブラシ入ってるから、勝手に使っていいぞ。」
「有り難き幸せ!」
「はは、何時代だよ、莫ァ迦。」
なまえの呼吸は矢張り再び止まった。
◇
「あ、みっちゃん!」
同日夕方、立原の背中を見つけたなまえが声を掛ける。
振り返る立原はいつもと変わらない様子だ。
立原に駆け寄ると、なまえは怒っている素振りを見せた。
「みっちゃんの所為で、波乱の夜明けだったんだよ!」
怒りで顔が赤いのか、将又別の理由が在るのか、立原は無言でなまえを見返した。
「なんで昨日はみっちゃんちに連れて帰ってくれなかったの!
起きたら中也さんちにいて、死ぬかと思った!否、何回も死んだ!」
「良かったな、ちゃんと今日も元気に生きてて。」
もー!と怒るなまえの頭をぽんぽんと叩いて宥める。
「俺もいつも通り連れて帰ろうとしたんだけどさ、中也さんが」
「え?中也さんが、何?」
名前が出るだけで、なまえの瞳に輝きが増したように見える。
そんなのはいつものことだというのに、何故かこの時はそれが癇に障った立原は、咄嗟に言葉を区切った。
「あー、いや、急な任務が入っちまって、中也さんに任せたんだよ。
なまえの家知らねーから、仕方なく自宅に連れて帰ったんじゃね?」
別に、こんな小さな嘘に意味なんてない、立原は何故かそんな言い訳を頭に思い浮かべていた。
◇
「中也さん、昨日はどもっす。」
報告書の提出がてら、中原に挨拶をする立原。
中原は受け取った報告書に目を落としつつ、適当な返事を返した。
「昨日、大丈夫でした?彼奴、酔うとひっついてくるから。」
一瞬、中原の片眉がぴくりと動く。
立原は喧嘩を吹っ掛けている訳ではなかったが、その様子を静かに見ていた。
中原は直ぐには答えなかった。
机上へぱさりと報告書を置き、ゆっくりと立原を見る。
「昨日のなまえは可愛かったぜ?」
昨夜、自宅に帰ってから、特に何もなかった。
何かを期待していた訳でも、まして何かをしてやろうとも考えていた訳ではなかったが、本当に何もなかった。
家に着く少し前からなまえは熟睡モードだったし、寝台に寝かせてその寝顔を少し眺めていたというだけで、本当に何も。
それを声には出さず、心の中だけで思うと、中原は意味深に口を歪めた。
別に、嘘は一つも吐いてない、中原は誰にも正否を問われていない答えを思い浮かべて、再び報告書を手に取った。
私が願っているのは、はたして幸福なのだろうか、
それともむしろ幸福への歩みなのだろうか。
アンドレ・ジイド |
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*confeito*