◆3 中也さんに拷問されるだけの話


私はいま、極度の混乱状態に陥り、状況が把握できない。いや、落ち着け。
一旦、頭の中を整理しよう。毎週の楽しみとなった金曜日のパスタを堪能したまではよかった。
正確には、会計を済ませてお店を出るまではよかった。
その後、帰社しようと数メートル歩いた所で思考が停止する。

途端に自身にかかる重力の方向が一気に上下逆になったような感覚がした。

そして、現在進行形で宙に浮いている。否、建物の壁に張り付けられている。
今度は重力が建物を下としているように、ぴったりと。

徐々に落ち着きを取り戻してきた…気がしただけだった。

眼下には先まで歩いていた道路が遥か遠くに見える。落ち着ける訳がない。
いつ地面にこの身が叩きつけられるかも解らない、というか、何故浮いているのかも解らないのだ。

一体これはどんな仕組みでこうなっているのだろうか。
それの答えを握っているのは、目の前に浮かんでいる人だという事は直感的に理解している。

浮かんでいる、というのは語弊がある。“細い電線の様な所に立っている”が正しい。
気持ち的には、浮かんでいると言いたい。
あんな細い線の上に立つのなんて熟練のサァカス団員であっても至難の業だろうし、あまりのしなりの無さは練習でどうにかなるものではない。

視認しているのは一般的より小柄とはいえ、成人男性だ。
それなのに体重を感じさせない...

あ、真逆、私……死んだのかな。

目の前に居る人は天使?
天使の概念を覆す風貌ではあるけれど、抑々世の中に出回っている天使の姿なんて所詮は空想。
生きている人間は誰も天使の姿なんて見た事がないのだから、本当の天使は実は目の前の彼の様な風貌なのかもしれない。

いや、待てよ。私のお迎えが天使だと何故言い切れる。
地獄へ落ちるのであれば、悪魔や死神が迎えに来るのが通説であり、どちらかというと目の前の彼は其方寄りである。

「嗚呼、私は地獄行きか…」

「……は?まぁ、相手が俺なんだ。手前にとっちゃあ地獄だろうよ。さっさと白状した方が身の為だぜ。」

なんだろう、何処で神様に嫌われてしまったのだろう。
私の人生で思い当たる悪事…幼少期に蟻の巣の穴を砂で埋めた事だろうか。

「さあ、話してもらおうか。目的はなんだ。」

言い訳としては純粋な好奇心だ。
穴の入口を塞いでも蟻は再び穴を掘ると聞いて、それが見たかったのだ。
唯、数分待ってもその穴から蟻は姿を見せず、巣の出入口が無くなった働き蟻たちが右往左往する姿だけがあり、興味を失くした私はその場を離れ友達と遊びに行ってしまった。

「おい、聞いてンのか。」

今思えば、なんて残酷なことをしたのだろう。
一体いくつの生命を弄び、悪びれもせず生きてきたのだろう。
それを今の今まですっかり忘れていたのだ、地獄行きでも文句は言えまい。
そういえば聞いた事がある、生前、動物の命を粗末にしていた人間が落ちる地獄は等活地獄だったか。
屹度、私はそこ行きだ。

「…ガン無視とはいい度胸してンじゃねえか。」

あれ、悪魔が何か言ってる。否、死神?
まてよ、悪魔とか死神って西洋のものだったか。
日本ってなんだっけ、鬼?嗚呼、鬼ってなんだかしっくりくる。鬼の手が伸びてきた。
いよいよ地獄に堕とされるのだろう。鬼も手袋ってするんだ。
意外とお洒落なんだな、と変な感心をしているとその手は私の左手首を掴んだ。
次の瞬間。ほんの一瞬で本来の重力を取り戻し、私の身体が宙に浮いた。
今までも宙に浮いている構図ではあったが、どちらかと言えば壁にへばり付いていた感が強かった。
今は正に宙ぶらりんの状態。支えは私の腕を掴む鬼の手のみ。

つまり、私の命は文字通り鬼が握っている。

地獄に堕とすのなら、殺すのなら、一思いにやってほしいのに。
どうせ死ぬと思うと、思いの外冷静でいられた。

「この状況で随分と落ち着いてるな。手前が生きるも死ぬも、俺の力加減次第だってのに。」

鬼が嘲笑いながら言った。そんな事、言われなくても理解している。
脳裏には家族や友人たちとの想い出の日々が巡った。
これが世に言う走馬灯というやつか。
お父さん、お母さん、先逝く不孝をお許しください…。心で呟いて、鬼を睨み付けた。

「さっさと殺しなさいよ。今更悔い改めた所で私の地獄行きは変わらないのでしょう。」

何故か鬼はきょとんとした表情を見せるが、直ぐに喉奥で嗤った。

「命乞いでもするのかと思えば、地獄とはな。
お望み通り彼の世に送ってやるが、先ずは手前の目的を聞いてからだ。」

目的…?なんの話だろう。人生の目的?そんな重い話を死に際の人間にさせるの。
然も宙吊り状態で。
質問の意図が解らず困惑していると、鬼は私の手首を掴む力を強めた。

「しらばっくれても無駄だぜ。吐くまで拷問するまでだ。」

さらりと恐ろしい事を言う。流石は鬼。
だが、こんな急に人生の目的なんて聞かれても…

「目的...」

「そうだ、手前の後ろに誰がついていやがる。」

私の、後ろ?え、どういうこと?バックボーン的な?

「そんなの、いない……」

「単独での行動だっていうのか。だったら猶更目的を聞くまでは楽にしてやれねぇな。」

そろそろ肩が外れそうだ。腕一本で己の身体を支えるのも限界がきていた。痛みに顔を歪める。
鬼はそれを冷たい視線で見下ろしていた。

「最近ずっと俺をつけていただろ。どうだ、何か俺の弱みでも握れたか?」

ずっと…?確かに毎週金曜日に同じパスタ屋に足を運んでは、こっそり盗み見て目の保養としてはいたけれど、付け回してなんていない。
それに私がどこで昼食を摂ろうと、それは私の勝手だ。というか…

「弱み…?確かに貴方を見ていた事は認めるけれど…」

駄目だ、肩が痛過ぎて変な汗が出てきた。呼吸も次第に辛く、視界もぼんやりとしてきた。

「漸く認めたな。つけてないって言うんなら何故俺を見てた。」

え、なにこれ、公開処刑?そういうプレイ?

「おら、どうした。やましい事がないってンなら応えられるだろうが。」

腕の骨が砕けるのではないかと思う程の力が加えられ、更に揺さぶられる。
顔に熱が集まっているのは痛みの所為だけではないだろう。咄嗟に俯き小さく呻く。

「言えねぇのか、あ?」

若しかして、もう地獄始まってる?私何時死んだの。
さっき“吐くまで拷問する”って宣言していたから、恐らく白状するまでこれは続くのだろう。
根性なしの私の脳内を、早く楽になりたいという気持ちが支配していた。独り言の様に呟く。

「は?全く聞こえねぇよ。」

鬼は舌打ちをして、掴んでいる私の腕を引き上げた。
強制的に鬼と対面させられ、目の前の顔面偏差値の高さに眩暈がした。
直視するには眩しすぎる…

どうせもう直ぐ散る命、こうなりゃ自棄だ。
静かに息を吸い込んで、真っ直ぐ鬼を見つめて言った。

「偶然パスタ屋さんで見かけた貴方が恰好良過ぎたんです。
また一目だけでも見たくて、若しかしたら会えるかもしれないと、毎週金曜日あのパスタ屋さんで貴方を待っていました。」

言ってしまった。なんという羞恥プレイ。
死にたい。



2024.06.30*ruka


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*confeito*