◇18 アンチ重力


なまえの両手を拘束する力が強くなる。
痛みに顔を歪め、目を固く瞑るなまえの手首は赤く鬱血していた。
鎖骨辺りをひと舐めして、太宰は溜息を吐いた。

「残念だけれど、時間切れのようだね。」

そう言うと、太宰は顔を上げなまえの額にそっと口付けを落とす。
強く拘束されていた両手が急に自由になり、なまえはゆっくりと瞼を上げた。

「忘れないでね、契約の事。」

目の前には、暗い瞳をした無表情な太宰の顔が在った。
何故時間切れだなんて言い出したのだろうかと考える間もなく、部屋の扉が勢い良く蹴破られ、"何か"が一直線に飛んできた。
其れは明らかになまえの上、即ち太宰を狙ったものだった。
然し太宰は其れが解っていたかの如く、ひらりと後方へ跳び避けた。
なまえは目を見開き、何度かパチパチと瞬きをした後、飛んできた"何か"の方へ視線を向ける。

目は見開かれた儘、瞬きを忘れた。

中原が壁に突き刺さっていたのだ。
垂直に。

足元の壁は中原を中心に円状に罅割れ、相当な勢いで衝突した事が窺える。
そんな事より何より、中原が、人が、垂直に壁に立っているのが、なまえの驚愕の対象だった。
帽子も髪も服も、中原に関わるものだけが重力を無視していた。

太宰はというと、自身の胸の辺りを手で払っていた。

「あーあ、少し擦れた最悪。無駄に汚さないでよね、中也。」

中原が垂直に壁に立っている事よりも、自分の服の汚れを気にしていた。
其れに対し中原が舌打ちをして、其れだけで人が殺せそうな鋭い視線を太宰へ向けた。

「そりゃ残念だ、其の襯衣を手前の血で真っ赤に染めてやろうと思ったのによ。」

「げぇ、趣味悪い。」

太宰と中原はさも当たり前かの様に会話を続ける。
なまえだけが状況を飲み込めずにいたが、ふと千葉の倉庫街での一件を思い出した。
急に重みを増したドレス…物質の質量や密度を操る異能と考えていたが、中原が操っていたのは重力だとなまえの思考は至った。
そんななまえを置き去りに二人の会話は進む。

「太宰、手前、俺に言ったよなァ。『姐さんが俺を探してる』って。」

「…言ったねぇ。」

「そしてこうも言ったな。『執務室に居る筈だ』と。」

「あぁ、言った。」

其処まで聞くと、中原は"通常の"重力の方向へ向かって降り立つ。
太宰の胸倉を掴み、強く引き寄せる反動で太宰の頭部は一度後ろへ倒れ、また前へと揺さぶられた。
至近距離で太宰を睨みつける中原は、地の底よりも低い声色で口を開いた。

「善い事を教えてやるぜ、太宰。姐さんはなァ、急な出張で今朝から西方に向かったそうだ。
手前は何処の姐さんが俺を探してるっつってたんだ?」

相変わらず無表情な太宰は、左目だけで中原を見下し大袈裟に両手を広げた。

「あー、そうかそうか、そーだった。紅葉さんが中也を探していたのは昨日の事か。
だけれど、何時探していたかなんて君も聞かなかったでしょう。
自分の確認不足を人に責任転嫁しないでもらいたいなぁ。
それに通常の此の時間なら執務室に居るだろうから、親切な私は中也に助言してあげたまでさ。」

嫌味な笑みを浮かべ乍ら、悪びれもせず言い放つ太宰に舌打ちをしつつ、中原はなまえをちらりと横目で見遣る。
太宰を掴んでいた手を離し、着ていたジャケットを脱いだかと思えばなまえに投げつけた。

襯衣が開けた儘のなまえを思い遣っての行動だった。

「で、手前は俺を追い払ってまでして、なまえとナニしようとしてたんだよ。」

「嫌だなぁ、ナニって。中也、勘違いしないでよ。先に襲ってきたのはなまえちゃんだよ?」

太宰はなまえに視線を向け「ねぇ?」と同意を求めた。
突然の問い掛けになまえは、中原の肩越しに太宰を見る。
視線が合った瞬間びくりと肩を揺らしたが、直ぐに中原の背中で遮られた。

「ンな事はどっちでもいい。俺の部下に手出しすんな。」

真剣な面持ちの中原に対し、キョトンとする太宰。
然し直ぐにニヤリと口許を歪め答えた。

「"俺の部下"ねぇ。もし手を出したら」

「ちょっと待って。」

太宰の言葉をなまえが遮る。
中原が振り返り、二人の視線がなまえに向く。

「なんで中也の部下なんですか。太宰さんの部下になるのが最適な環境です。」

真っ直ぐ太宰を見つめ乍ら訴えるなまえに太宰は溜息を吐いた。答えたのは中原だった。

「太宰にはもう直属の部下がいるんだよ。」

「そ、如何し様もなく手のかかる出来損ないの部下がね。」

ポートマフィアの掟だと二人はなまえに説明する。
なまえは納得はしていなかったが、渋々了承した。
どうせポートマフィアとしての任務中は手出しが出来ないのだから、と。

「という訳で、これからなまえちゃんを首領の元へ連れていかなければならない訳だけれど。」

其の前に、と太宰がなまえに近づく。
なまえが胸元にかけていた中原のジャケットを剥ぎ取り床へ投げ捨てる。
「おい!」と中原が怒り乍ら拾っている間に、なまえの襯衣に手を伸ばす。
数分前に其の手で外した釦を、今度は留める気らしい。
なまえは太宰の手に触れ、「自分で」と伝え釦を留めた。

「却説、本題だけれど、なまえちゃん。君の異能を教えてくれるね。」

釦を留め終わったなまえの動きが止まる。
中原の異能に依って罅割れた壁から、破片が一欠片剥がれ落ちた。


2018.06.14*ruka



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*confeito*