◇34 苦衷の誘惑者


「なまえちゃん、如何したのなまえちゃん!」

パソコンの前に座り、耳元のインカムを抑え、慌てた様な声を発する太宰。背後で壁に凭れ掛かり、腕組みをしていた中原がその声を聞き、太宰の元へ駆け寄る。

「おい、なまえに何かあったのか?!」

「なんちゃって。」

ニヤリと笑い中原を横目で見る太宰。中原は舌打ちをして、其の場を離れようとしたが、太宰が止めた。

「此処までは想定内。屹度なまえちゃんは今、睡眠薬か何かで眠らされている筈だよ。」

「は?なんで彼奴が睡眠薬なんて盛られるんだよ。」

冷静な太宰に反して苛立つ中原は、執務机を思い切り叩いた。太宰が面倒臭そうな表情を返す。

「抑も、マレブランケがポートマフィアの密輸船を襲ったのは、なまえちゃんを誘き出す為の罠だったんだよ。」

中原が目を見開く。太宰はパソコンの画面を見乍ら続けた。

「おかしいと思わなかったかい。暗黙の了解とはいえ、ポートマフィアを襲わないという掟を破ってまで密輸船を襲ったのに、未遂で終わっている。
確認したら、其の密輸船の警備にあたっていた此方の人員に、異能者は一人もいなかった。」

「…彼方には異能力者がなまえの他に五人いるって言ってたな。」

異能力者が五人もいて、経験豊富な彼らが未遂で終わるとは思えない。本気で襲う心算はなかったと考える方が納得がいった。太宰は頷くと、パソコンの画面を中原へ向ける。画面上で点滅している赤い点が移動を始めていた。

「なまえちゃんの最後の会話で、アリキーノと呼ばれた男が"傷つけたくない"と言っていた。恐らくなまえちゃんの制裁でもする気なんだろう。
この先にマレブランケが取引で使っている雑居ビルの廃墟がある、中也は其処に…って」

太宰の説明が終わる前に、中原は部屋を出ていった。

「せっかちだなぁ。」

太宰は誰もいない部屋で呟くと小さく笑い、席を立った。するとなまえの声が聞こえなくなってから雑音ばかりを拾っていたインカムから、男の声が聞こえた。誰かとの会話ではなく、明らかに"此方"へ話し掛けていた。

「マラコーダを連れて来い、そうすればなまえは解放してやる。」

その言葉を最後に、音は一切聞こえなくなった。GPSも同時に破壊された様子で、パソコンの画面上にあった赤い点は消失していた。

「…マラコーダ、ね。」

インカムを外し、机にそっと置くと、太宰は部屋を出ていった。



硬いコンクリートの冷たさで目を覚ましたなまえ。視界は奪われ、両手を後ろで拘束されていた。
頭の奥に鈍痛はあるものの、外傷による痛みは少しもなかった。

意識を失う直前のアリキーノの表情を思い出す。悲しそうな、苦しそうな表情。歳も近く、一番よく面倒を見てくれた兄のような存在だった。
"傷つけたくない"、彼はそう言っていた。最初から判っていたのか。其れだけで、これから我が身に何が起こるのか想像に難くなかった。

右耳のインカムも取り外されている。耳元で聞こえていた、あのうざったい声が聞こえないだけで、急に不安が込み上げる。自身の事ではなく、インカムの向こう側への影響が不安でならなかった。
これから受けるであろう痛みは、謂わば身から出た錆。何れ起こり得るだろう事態だった。然し、ポートマフィアに、彼の二人にまで波及してしまうのは本意ではない。

「起きたか、愛しのカルカブリーナ。」

なまえが体を起こすと、少し離れたところから声が聞こえる。聞き慣れた声だった。

「…アリキーノ。」

震える声で答えるなまえに、ゆっくりと近づいてくる足音。其れはなまえの近くで止まり、頬を温かい手が包んだ。
目隠しをされているなまえは、反射的に体を揺らす。

「何故僕を、マレブランケを捨てた。」

悲しみと怒りが混じったような声色に、なまえは直ぐに否定を示す。

「捨ててなんかない!」

頬から手が離れていく。すると、暗転していた世界が光を取り戻す。アリキーノはなまえの目隠しを取ってやったのだ。
部屋には間接照明が複数設置されていたが、明るいとは言えない程度だった。なまえがアリキーノを見ると、辛そうな表情を浮かべていた。

「質問を変えよう。何故ポートマフィアに入った。」

矢張り、となまえは息を飲んだ。今この事態を招いた種と言ったら、それぐらいしか思い当たらなかった。
なまえは目を伏せ、口を噤む。答える素振りを見せないなまえを、アリキーノは強く抱き寄せた。尚も両手を拘束された儘のなまえはされるがまま、アリキーノに身を委ねる。

「他の皆はお前を処罰する心算だよ、裏切り者のレッテルを貼って。僕は勿論反対した。だから代わりに提案したんだ。」

アリキーノは腕の力を弱めると、なまえの双眸を真っ直ぐ見つめた。

「戻っておいで、なまえ。まだ間に合う。一緒に皆に謝ってあげるから。全部確り説明すれば皆も」

「ごめんなさい、それはできない。」

なまえが遮る様にして答えると、アリキーノは黙り込む。
なまえの肩を掴む手に力が加わる。骨が軋む感覚に、なまえは少し顔を歪めた。

「…んで、なんで離れていくんだ。僕がなまえを一生守るって、愛すって…誓ったじゃないか!」

「それは…」

「知ってるかい、なまえ。"神曲"でアリキーノとカルカブリーナは取っ組み合いの喧嘩をして、ぐつぐつと煮立った瀝青の池に落ちてしまうんだよ。」

アリキーノはなまえの肩から首へ手を移動させ、力を込めた。首に指が食い込むと、苦しそうな呻き声がなまえから微かに漏れる。

「一緒に落ちよう、愛しのカルカブリーナ。」


2018.12.30*ruka



<<back


*confeito*