◇42 たとえば狐の革裘


「おい、なまえは。」

中原が、後から入室してきた太宰に問う。

「お・つ・か・い。」

太宰は口元に弧を描く。中原は気色悪ぃとソファへ深く腰を落とした。中原の向かいのソファに座り、太宰が続ける。

「中也にしてはスパルタなんじゃない。今日は休ませると思った。」

「…彼奴の意思だよ。」

太宰は足を組み、さして興味もなさそうに、気の抜けた声を適当に返した。

「でも、上手く手懐けたみたいじゃない。」

視線は明後日の方向へ向けた儘、中原に言った。
其の表情は"つまらない"と大きく書いてあるかの様で、中原は笑った。

「なんだァ?太宰、ヤキモチか。だが…アレは俺に懐いてる訳じゃあねぇさ。
俺が勝手に焼いた世話への礼でもしてる心算なんだろ。」

自嘲気味に言うと、中原は天井を見上げた。
帽子が落ちそうになり、右手で抑えつつ、何やら考え込んでいる素振りを見せる。

「何かあったの。」

何時の間にか、太宰は中原へ視線を向けていた。中原もまた、視線だけを太宰へ向けた。
暗い瞳の太宰に言って佳いものか、少し悩んだ結果、話してみる事にした中原。
一度座り直し、前屈みになった。

「昨夜は確かに沢山あったんだよ。勿体ねぇなって思ったんだ。」

主語が抜けている中原の説明を、急かす事なく太宰は耳を傾ける。

「でも…今朝には綺麗に戻ってた。彼奴の顔の掠り傷。」

太宰は何も言わずに足を組み直し、口に手を当てる。
その手の内側で、口角が徐々に上がっていくのを、中原は知らない。



其の日は中原の言いつけにより、なまえはずっと事務処理をしていた。
中原も極力外出せず、なまえの傍らで報告書等をまとめていた。
然し、夕刻からどうしても外せない会議があるらしく、適当に切り上げて先に帰宅するようなまえに指示をして、執務室から出て行った。

其の後も黙々と事務仕事を熟すなまえ。
幸か不幸か、一日では終わらないような事務仕事が溜まっていた。
食事もせずに事務仕事に没頭するなまえ。時計は夜十時を回っていた。
静寂の執務室で聞こえるのは、秒針の音とノートパソコンのキーを叩く音だけだった。

其処へ、扉を開閉する音が聞こえ、なまえは顔を上げる。

「真面目だねぇ、ソレ全部終わらせる気かい。」

なまえの机上に山積みされた書類を指差し、ウンザリという表情をしたのは太宰だった。
黒い外套を羽織っているところを見ると、恐らくもう帰宅するのだろう。なまえは太宰の問い掛けには答えず、お疲れ様でしたとだけ言うと、パソコンの画面に視線を戻す。
太宰は無表情の儘、なまえの机に歩み寄る。

「君は何故私が此処へ立寄ったか、という事は考えたりしないのかい。」

太宰はつまらなさそうに、なまえの机に軽く腰掛け乍ら続けた。

「昨日今日と、仕事に精を出し過ぎた。私はこれから飲みに行くよ。」

「いってらっしゃいませ。」

なまえは尚も調子良く、釦を叩く手を休める気も、太宰の話に相槌を打つ気もサラサラ無いという態度をとる。
すると、太宰の手によってなまえのノートパソコンがパタリと閉じられた。
なまえは危うく手を挟むところだった、と太宰を睨むも、太宰は相変わらずの無表情。

「解らないかな、君を誘ってあげているのだよ。」

それならば、最初から素直に誘えば良いのに、となまえは溜め息を吐く。
然し、なまえも少し飲みたい気分でもあった。
未だにパソコンに置かれている太宰の手を押し退けて、仕事を続行したいと言う訳でもない。また、相手が太宰なだけに、其れを実行するのは極めて困難だ。

「……データだけ保存しますので、手を退けて下さい。」

太宰はにっこり微笑むと、直ぐ様手を退かし、なまえは片付けを始めた。

「嗚呼、そうだ、一つだけ。」

太宰は人差し指を立て、なまえを斜め上から見下ろした。なまえは視線だけ太宰へ向け、片付けの手を一旦止める。

「これから行く先で、無粋な真似は控えてくれ給え。」

"無粋な真似"の真意を理解したなまえは、一度だけ頷く。屹度、太宰にとって大切な場所なのだろう。
なまえは太宰との契約は少しの間、忘れることにした。



着いた先は、太宰の行きつけらしい、《ルパン》というバーだった。
扉を開き階段を降りると、カウンターのバー・スツールに男性客が一人座っていた。

「やァ、織田作。」

「太宰か。」

其の男性客は太宰と知り合いらしく、両者共、片手を上げて挨拶を交わす。
なまえは軽く会釈をする。

「彼女は。」

織田作と呼ばれた男性客が太宰に問う。
太宰は其の男性客と一つ席を飛ばして座ると、其の飛ばした席へなまえに座るよう促す。

「此の子はなまえちゃん。中也の部下だよ。」

「中原の?珍しいな。」

なまえは太宰の指示通り、二人の間に小さく座り、男性客へ再び会釈をした。

「みょうじ…なまえです。」

「俺は織田作之助だ、宜しく。」

「なまえちゃん、何飲む?」

「では、マティーニを。」

太宰は頷くとカウンター内のマスターにマティーニと蒸留酒を注文した。

なまえと太宰の前に酒杯が差し出されると、織田は半分程減った酒杯を上へ掲げた。合わせるように太宰も酒杯を掲げる。
なまえは左右を一度見て、少し低め乍ら、二人と同じ様に酒杯を掲げた。

「なまえちゃんに。」

「みょうじに。」

「……出会いに。」

三つの酒杯の接触音は、店内に綺麗な音色を響かせた。


2019.06.25*ruka



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*confeito*