◇36 いつかの誰か
太宰の言葉にアリキーノは狂った様に大声で叫び出し、なまえの髪を更に引っ張り上げると、なまえは膝立ちの状態になった。
なまえは太宰に向かって"ありがとう"と微笑むと、"貸しね"と微笑み返された。
なまえは舌打ちをした後、視線だけアリキーノに向ける。
「ナイフを靴に仕込む習慣、変わってないのね。」
なまえはそう言うと、自分の髪をナイフで切り、アリキーノから距離を取る。アリキーノの手にはなまえの髪の束だけが残った。呆気に取られ、動けないでいるアリキーノを横目に、太宰が言う。
「あー、勿体無い。なまえちゃんの綺麗な髪が。」
「これは高くつくぜ。」
続けて中原が笑い乍ら言った。
「別に、そんなのいくらでも。」
大して髪に執着がなかったなまえは冷たく言い放つ。その手には、アリキーノの靴から抜き取った、小型のナイフが握られていた。両手を拘束していた縄を慌てて切断した所為で、両手首からは夥しい量の出血が見られた。
先程の太宰へのお礼と、貸しという意味が時間稼ぎに向けられたものだと気づき、アリキーノは膝から崩れ落ちる。
「カルカブリーナは踊らない、か…。」
アリキーノは自嘲気味に嗤うと、握った儘のなまえの髪の毛を愛おしそうに胸元で握り締める。
「なまえ、僕から…マレブランケから離れた理由だけでも、教えてくれないか。」
その問いに答えたのはなまえではなく、太宰だった。
「そんな事も解らないの。君はなまえちゃんの何を見てきたんだい。」
「なっ…お前になまえの何が解ると言うんだ!」
太宰の冷たい瞳をアリキーノが厳しく睨む。態とらしく溜め息を吐いた太宰は、なまえに視線を向けた。
「君もトコトン報われないねぇ。まぁ、言わなければ伝わらない想いは、少なからずあるだろうけどさ。」
なまえは視線を落とす。自分の手から血が滴るのが映った。
「なまえちゃんは、貧民街の子ども達だけでなく、マレブランケの救済の為に行動をしたまでさ。
素晴らしい自己犠牲の精神だよ。愚かとまでは言わない、唯、私なら他の選択肢を選ぶけれどね。」
「私には、それ以上の選択肢はありませんでしたから。」
アリキーノは意味が解らないとなまえを見つめるも、視線が交差することはなかった。
「まだ解らない?君らマレブランケに渡していたなまえちゃんの報酬、受け渡しする所を見た事くらいあるだろう。よぉく思い出してごらんよ。
恐らく彼女は"二つに分けて"渡していた筈だ。」
いつも受け渡しはアリキーノのバーで行われていた為、何度も目にした光景であり、思い出すのは容易かった。
確かに、なまえは必ず紙袋を二つに分けていた。
それが何なんだと太宰を睨んだアリキーノに、一つの考えが浮かんだ。
「真逆…!なまえは最初から」
「そ、貧民街の子ども達の分と、君らマレブランケの皆さんの分だよ。
受け渡しの際になまえちゃんはそう告げているだろうけど、受け渡し担当者が其の意思を無視したのだろうね。」
「何で太宰さんがそんな事まで…」
「君の言動、態度からの推測でしかない。裏をとるまでの時間はなかったからね。
私が言っている事に間違いがあれば訂正してくれて構わないが、どうかな。」
「…訂正は、ありません。」
アリキーノはすまなかったと呟き、持っていたナイフを手放した。乾いた音を響かせて、ナイフは床へ転がった。
「マレブランケの皆んなには、もう手を汚して欲しくなかったの。
私の勝手な考えだけど、其れが私の、この異能を持つ者の責務だと思って。」
なまえの言葉に反応したのは中原だった。その姿はまるで…
「中也、まるで昔の"誰かさん"みたいだと思わないかい。」
太宰が揶揄う様に中原に言うと、舌打ちをして視線を逸らした。
「ならばせめて、神の毒で…お前の手で殺してくれ、なまえ……」
震える声で懇願するアリキーノに、なまえは首をゆっくりと横に振る。アリキーノはゆらりと立ち上がるとなまえに歩み寄る。
「なまえが傍に居ないのなら、此の世界で息をする意味がないんだよ。」
なまえの頬に手を伸ばし、触れようとした、その時だった。
「そんなの、私が許す訳ないでしょう。」
伸ばされた太宰の手には銃が、その銃口はアリキーノへ向けられていた。
「ばッ…太宰待て!なまえが……!!」
銃声が聞こえる直前、中原はなまえに駆け寄り抱きかかえたが、なまえの瞳にはアリキーノの頭蓋に弾丸が撃ち込まれる瞬間がはっきりと映った。
血液と脳漿が飛び散り、薄汚れた壁と床を更に汚す様が。
その後続けて二発の銃声が耳に届くも、只管に中原の胸に視界を遮られていた。瞬きを忘れた双眸からは、惜し気もなく涙が溢れ、中原のジャケットを濡らし続けた。
2019.01.20*ruka
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*confeito*