◆ 7 適任者


潮風が止んだ。
私と太宰の間に静寂だけが流れ、時を刻んでいく。

太宰は微笑を浮かべ乍ら私に一歩ずつ近付いて来る。
何を考えているのか読み取れない、作り笑顔の包帯男。
包帯で隠れていない片方の瞳が月明かりで鋭く光る。

"御礼"をしよう。
あの日から今日迄の。
屹度、気付いていないだろうから。

私の心の平穏を乱してくれた御礼をたっぷりと。

ゆっくりと近付いてくる太宰に柔らかく微笑み掛ける。
心の中で舌を出し乍ら。

あと三歩近付いたら私の攻撃可能範囲に入る。

二歩

一歩…

「あ、そういえば。」

文字通りあと一歩という処で、太宰がピタリと停止する。
此の男、何処から何処までが計算なのか甚だ疑問だ。
間合い的にギリギリ届きそうではあるが、避けられる可能性のが高い。
無駄なリスクは負わない主義の為、素直に太宰の言葉に耳を傾ける。

「"御礼"なら胸中に仕舞っておいてくれ給え。」

「っ…!」

総て見透かされていた。屈辱と羞恥心から顔が熱を帯びていく。
嫌味な微笑をこれ以上見ていたくなくて、思いっきり顔を背けて言い放つ。

「それで?態々小細工まで仕掛けて私の居場所を突き止めたのですから、それなりのご用件がお有りなのでしょう。」

些か自分でも子供染みた仕草だとは思ったが、予想以上に太宰のツボに嵌まったらしい。
私の話は其方の気で声を押し殺す様にして肩を震わせ嗤っていた。
本当に腹立たしい…太宰の人を苛つかせる才能は天才的だと認める。

そんな事を考えながら、顔は更に熱を増していく。
軽く舌打ちをするのが精一杯の反抗だった。

「いやぁ失礼、今迄の印象より随分と子供っぽかったものだから可笑しくてつい。」

太宰はふぅっと軽く息を吐き出したら、漸く落ち着いた様子で続けた。

「今日はなまえちゃんに仕事の依頼があって尋ねたのだけれど。」

「…依頼?天下のポートマフィア様が?」

思わず鼻で嗤ってしまった。
先程まで私を可笑しいと太宰は嗤っていたけれど、其れより何倍も可笑しな事を言う。
私が暗殺者だという事を知っていて”仕事の依頼”という事は、つまりそういう事だ。

然し私を頼るという事は、ポートマフィアには殺せない相手。

…中也という男の戦闘能力は相当なものの筈。
あの日、会場を立ち去る際に目の当たりにした屍の数。屈強な男達が道を塞ぐように、数えるのも面倒臭い位転がっていた。小柄な身形からは想像ができず、ゾッとしたのを覚えている。

その中也でも殺せない相手、という事なのだろうか。

「君が適任だと思ってね。」

「私が、適任…。」

標的は男か。
私の手法は凡そ解っているだろう太宰が言う適任とは、屹度そういう事だ。

「勿論、報酬も弾むよ。」

首を少し傾け、にこっと嗤ってみせた太宰は私の事を何処まで知っているのだろう。
中也とは別の意味でゾッとした。

「私が報酬だけで動くとでも?」

私は茶化す様に、先の太宰を真似るかの如く小首を傾げ、にっこり嗤ってみせた。
太宰はというと最初目を丸くさせ、何度か瞬きをした後、思いも寄らない行動に出た。

一歩近づいたかと思ったら、次の瞬間腕を取られ引き寄せられた。
瞬時に抵抗し離れようと、捕らわれていない手で押し退けてはみたが、さして力が強い訳でもない為、逆に輪郭を捉えられてしまった。

強制的に太宰と向き合わさせられる。然も至近距離で。
普通の女性ならば、此処で頬を紅く染めて、可愛らしく照れたりするのだろう。頭では理解していても、仕事でもないのに演技したくも無く、無心で太宰の瞳を見つめた。

…無心は嘘だ。此の男は綺麗だと思った。
月明かりが作る陰影に、冷たさを感じる瞳が神秘さを増す。

初めて男に見惚れてしまった。

其れ以上でも、其れ以下でもなかったが。

「矢張り、なまえちゃんは綺麗だね。」

私は別に何も答えなかった。
そんな言葉に意味など無かったからだ。

代わりに太腿に隠し持っていたナイフを取り出し、太宰の首に宛がった。
薄っすらと包帯に朱が滲む。

今の所、いや、まだ、殺すつもりはない相手だった為、そう深くは刺し込まなかった。唯の脅しだった。

「至極、残念だ。」

太宰は月明かりを灯した片目を少しだけ細めて、囁くように言うと同時ににやりと嗤う。

「其の程度じゃあ、死ねないなぁ。」

太宰の瞳の奥に計り知れない闇をみた気がして、背筋が凍る感覚と同時に私の脳内でけたたましく警鐘が鳴る。
早く離れなければ、その一心で、ナイフの柄の部分を太宰の喉仏へと叩きつけ、後ろへ勢い良く下がり離れる。

ゴホゴホと苦しそうに咳き込む太宰は、喉元を抑えながらも視線だけは私を捉えていた。

私はと言うと、ナイフを構えた儘、太宰を睨みつけ乍らも、動けずにいた。そして、何とも言い難い恐怖に少し震えていた。酷く嘆かわしい。

そんな状態の私を確認した太宰は再び口許に微笑みを携えて言った。

「ねぇ、私が相手で良かったね。中也だったら、君、死んでたよ。」

何も言い返せなかった。其の通りだったから。あまり肉弾戦は得意ではないことが露見してしまった。

「ま、さっきも言った通り、今回は殺しが目的ではないのだけれど。」

そう言う太宰からは、先程の恐怖は感じられず、少しだけ全身の筋肉が緩んだが、姿勢は変えずに出来るだけ平静を保ち問う。

「…私に依頼しに来たのでしたね。ポートマフィア様でも殺せない、殺したい者がいる、と?」

太宰はふっと短く息を吐き答えた。

「そう…他でもない、私を殺してくれないか。」

止んでいた潮風が、また吹き始めた。

先よりも、少し強目に。


2017.09.25*ruka



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*confeito*