Marguerite

泡沫に溺れる

 
タクシーの運転手だった"広田健三"は、不本意ではあるけれど始末した。あとはあの大男を眠らせて10億円を持ち去るだけだ。大丈夫、計画は完璧だ。誰も私のことなんて気にしてないし、変装も大丈夫だったはず。
罪悪感から逃れるように何度も自分を言い聞かせて、大男のいる802号室へと足を進める。エレベーターに乗って扉を閉めようとしたとき、一人の女の子が乗り込んできた。

「すみません……」
「っ…。いえ、何階ですか?」
「えーっと、8階です」

一瞬自分が吃ったことを彼女は気にしていないようで安心する。
乗り込んできた彼女を、私は知っている。一方的にではあるけれど、確かに彼女に間違いはない。ただすれ違っただけならば覚えていなかっただろうけれど、前に大ちゃんと一緒だったのを確かにこの目で見た。そのときに大ちゃんがとても愛おしそうに彼女の名前を呼んでいたことを思い出して、だけども今はそれどころじゃないと思考を切り替える。
8階に着いて、彼女を先にエレベーターから下ろす。彼女がエレベーターホールの案内図を見ていることを横目で確認して、横を通りすぎる。後は、部屋に行くだけー…。

「え……?」

先程まで案内図を見ていた彼女が、私の腕を掴んでいた。

「あ、の……?」

何故今、彼女が私の腕を掴んだのか。恨み言でも言いに来たのだろうか。首をかしげながら、彼女を見る。

「…こんなこと、私が言うのって変だと思います」

下を向いていた彼女が、真っ直ぐな目で私を見てきた。

「……自首、してもらえませんか」
「何のこと…?」

とぼけたフリをして、彼女に問う。けれど、目の前の彼女は全てを知ってるんだ、とでも言うように言葉を続ける。

「3億円、強奪事件……貴方、何ですよね?」
「……誰かに、何か言われたの?」
「…いいえ。でも、お願いです。こんなことしたって、何も救われない…!」

一瞬、彼女が大くんに何かを言われたのかと考える。でも、それは違うようで。もう時間はない。私は彼女の手を振り払って802号室に向かう。隠し持っていた、薬品の染み込んだハンカチを握りしめて。

「むぐっ……」

再度私の腕を掴んできた彼女の手を取って、ハンカチを口と鼻に押さえつける。もう、後には戻れないんだ。

「ごめんなさいね……。どうか、彼の…」

ぽたり、と彼女の頬に雫が流れる。意識を失った彼女のものではなくて、私のものであるソレ。今更こんなことを言っても、仕方がないってわかっているのに。

「彼の、傍にいてあげて…?」

 + + +

802号室の前で会った彼女は、大男が血を吐いて息絶えた802号室に入れていた。彼女が犯人でないことは彼女自身が証明するはず。
ジンたちと待ち合わせている港に来たものの、まだ時間はある。どうして時間を潰そうか、と考えていたら、足音が聞こえてきた。それは、眠らせた筈の彼女。

「明美、さん」

薬、足りなかったのかな。でも、少し彼女と話がしたかったのも事実。

「まだ、少しだけ時間があるの。話をさせて貰ってもいいかしら?」
「私、に…ですか?」
「えぇ。大くんのことで、ね」

彼女が、私の言う"くん"という人物を知っているかはわからない。けれど、あのとき彼女が呼んだ名前は、ハッキリとは聞こえなかったけれども私の知る"諸伏大"という名前では無かったはず。

「私の事、知ってるんですか…?」
「…内緒。知ってるっていう程でもないけど知らないわけでもないかな」

寒い冬の日に、大くんと彼女が楽しげに街を歩いているのを見た。そのときに大くんは彼女の名前を愛おしそうに呼んでいて。彼女も、彼に甘えるように彼女の名前を呼んだ彼の腕を組んで。
お似合いだな、なんてことを思った、なんて、彼女には教えてあげない。コレは、私だけの秘密なの。

「あんまり、気にやまないでね?」
「え……?」
「確かに私は大くんと付き合ってはいたけれど、彼からすればあくまで仕事。ただ目的の為に付き合ってただけなのよ」
「そんなことっ……!!」

複雑そうな顔をする彼女に、私は告げる。目の前の女の子が、嫉妬してしまうような関係は私には無かった。そこに情はあっても、それは愛情ではなかったのだから。

「組織を抜けるなら殺されるかもしれないことなんて、分かりきってたことだもの。それに少しでも可能性があるなら私はそれに縋りたいの」
「貴方が死んだら、妹さんが悲しむじゃないですか…!」
「言ったでしょ?少しでも可能性があるなら、それに縋りたいって」

私は、彼より妹を選んだのだ。どうあがいても振り向いてくれない彼よりも、肉親である妹を。
きっと私は、肉親である妹よりも彼を選んでいたほうが、ずっとずっと後悔する。だから、これでいいの。

「大くんにね、伝えてほしいの。最後に出したメール、気にしないで、って。あの言葉に、意味なんてないって」
「貴方が、貴方が生きて戻って、伝えればいい!あの人は、貴方に生きていて欲しいって思ってる!」
「……ごめんね」

もうすぐ、ジンたちがここに来る。彼らに彼女の存在を知られれば、現場を見たということで彼女も殺されてしまう。私の命は諦めてしまっても、彼女の命は諦めたくはない。

「そこから、動かないでね。動いたら私、貴方のこと嫌いになっちゃう」

泣きそうな顔をする彼女に、私はうまく笑えていたのだろうか。

 + + +

意識が、徐々に暗くなっていく。あぁ、私死ぬんだなぁってどこか冷静になった頭で考える。小さな探偵さんが彼女を遠ざけたのは、最期を見せないためなのだろう。けれど、彼の気遣いとは裏腹に彼女はすぐに戻ってきて。
大くんが、優しく彼女の、呉羽ちゃんの名前を呼んでいたことを、私はこの数日間何度思い出しただろう。大くんのことを諦めた、と言えば嘘になるけれど、それなりに自分の中でケリをつけたつもりだ。
本当なら、私を見てもらいたかった、という気持ちはあるけれど。もし例え、仮に呉羽ちゃんがいなかったとしてもそれは叶わないことだって分かる。だったら、彼を振り向かせる事が出来た彼女に彼を託したいと、任せられると思える。

「あの人を、お願いね…?感情表現とか、上手い人じゃないから…」

こんなこと、貴方なら言わなくても分かってたことなのかな?呉羽ちゃんは、私の手を握りしめながらコクコクと頷く。
力が、抜けていく。もう、腕を上げているだけの力も私には残っていなかった。

ねぇ大くん。
私のことなんて、忘れてね?
仕事で付き合っただけの馬鹿な女だもの。本当に心から愛おしく思っている彼女を大事にしてあげて?
私が呼ぶことが叶わなかった、貴方の本名を、呉羽ちゃんには呼ばせてるのでしょう?
生まれた頃から組織に監視されているような人生で嫌にならなかった、って言えば嘘になるけどね、
貴方に会えたこと、私が愛おしいと思った貴方が愛おしいと思うあのコに会えたこと、
私の人生の中で、すごくそれが誇りに思えるの。
ねぇ、大くん。呉羽ちゃん。
私ね、貴方達に会えて――・・・。
 
2014.08.05
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