Marguerite

月が綺麗ですね

 
時の流れというものは誰にでも平等で。幸せでも不幸せでも、残酷に世界は廻る。朝は、訪れる。港からバイクで帰って来て、倒れるようにそのまま眠りについた。
ぼんやりとする頭で学校に行って、授業を受けた。授業の内容なんて頭に入らなくて。周りのコたちにも、心配をかけさせたと思う。

「はぁ……」

吐いた息は、誰にも聞かれること無く空へと消えた。期限は遅くても一週間以内と言っていた。出来る限り早い方がいいと言っていた。
赤井さんに一番最初に証人保護プログラムの話をされてから1日しか経っていないのに、聞いたのはもう随分と前に感じる。
もともと前の世界にいたときから赤井さんのことは好きで。でも関わってしまったら戻れなくなってしまうと思って避けていたのに思いの外関わることになってしまって。
案の定、戻れなくなってしまった。
我ながら馬鹿らしいことになった、と思いながら、脚を動かす。今向かっているのは、赤井さんに連れて行かれたあの事務所。もう、私の中の答えは決まっている。

「呉羽」
「え……」

もう、聞くことは無いと思っていた声で、自身の名前を呼ばれた。どうして、と思うのと同時に思わず一歩下がる。あんなにも証人保護プログラムを勧めてきた彼が、どうして今この場所にいるのだろうか。

「……何、で…。今更私なんかのところに…?」

ここで素直になれたら、よかったのに。こんなひねくれた聞き方をするんじゃなくて、もっと可愛げのある聞き方が、出来ただろうに。

「何で、だろうな」
「え……?」
「証人保護プログラムを勧めたのは、自分だ。それなのに、自分の元からいざ離れるとなると、惜しいと感じるのは…些か自分勝手すぎるな」

自分の掌を眺めながら、赤井さんは呟くように言った。
何で、今そんなことを言うの。覚悟を決めたというのに。もう、証人保護プログラムを受けるって決めたのに。今、そんな引き止めるようなことを言われると。

「受けないって、言いたくなるじゃないですかっ……」

その場にしゃがみ込んで、涙が落ちるのを必死で堪える。目の前に、赤井さんがしゃがみ込んで来たのが気配でわかった。
くしゃり、と私の頭を撫でて、何か言いたそうに言葉をどもらせている。

「ホント、赤井さんずるいですよ…。証人保護プログラムを受けろって言ったり、惜しいって言ってきたり……私に、どうしてほしいんですかっ…」

切なげに顔を歪ませた赤井さんが、私の目の前にいた。昨日の冷たい目をしたのとは違う、今まで見てきた赤井さんの目をしていた。

「証人保護プログラムを受けないでも、いいと言ったらどうする?」
「どういう、こと、ですか…?」
「俺が、お前を護れば良いだけだ。それぐらいの覚悟は元々していた。あとは、お前が俺の手を取ってくれ」
「手、を…」

まるで、それは悪魔の囁きのようだった。甘く酔いしれるような言葉で誘惑して。闇の顔を見せぬままに、引きずり込むような。
目の前の彼は、私の頬に触れる。その瞬間。

「っ………」

昨日のときと同じように、乾いた音が響いた。手を出したのは、私。今まで、触れられることなんてなんともなかったのに。何かが違う。私の中の何かが、目の前の人は赤井さんではないと、警報を鳴らしている。
じゃあ、目の前にいる彼はダレ…?

「残念だわ……。この手を取ってくれたら、あとは連れ去るだけだったのに」

赤井さんの顔が、剥がれていく。前の世界では何度も見てきたけれど、この世界では初めて見る顔。

「さすが、ジンとシルバーブレッドの二人が気に入った女ってところかしら?」

ベルモットの、顔だった。私の中の警報が、大きくなる。逃げろ、と大きく鐘を鳴らす。けれど、金縛りにあったかのように、私の体なのに、動かなくて。

「そんな顔をしなくても大丈夫よ。殺しはしない。今回だけ、見逃してあげるわ」

彼女の言葉に、我に返る。その瞬間、私は踵を返して走りだした。FBIの人達がいる事務所に向けて。

「あのコ、面白いことになりそうね……」

彼女が、何を意図してそんな言葉を呟いたのか知らずに。

 + + +

あのまま、公園から走って事務所まで来た。すでに日は暮れていて、月が見えている。そこには、赤井さんが立っていた。
私は、覚悟を決めて事務所の扉を開く。そこには、赤井さんが待ち構えるように立っていた。昨日と同じ、冷たい瞳をして。

「…もう少し、静かに入ってきたらどうだ?」
「……ベルモットに、会いました」
「何?」
「赤井さんの顔をして、私を連れ去りたかったみたいですよ」

通り過ぎざまに彼に告げれば、まじまじと私を観察するように見る。生憎ながら、怪我もしてないしただ少し話しただけだ。

「ジョディさんたちは、奥ですか?」
「あぁ」
「ねぇ、赤井さん」
「…何だ」

さっきの赤井さんは、ベルモットで、偽物だった。偽物にでさえ縋りたいと思ってしまった私が言っていいことなのかはわからないけれど。赤井さんと離れてしまう前に、言いたいことがあった。

「今夜は、月が綺麗ですね」

どうか、彼がこの言葉の意味がわからないことを祈って。

2014.08.13
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