Marguerite

泡になれない人魚姫

 
家に帰っても、まだ誰もいなかった。部屋の中は暗くて、どうやら秀一さんは戻っていないらしい。ただ、こっちに戻ってくるかどうか聞きそびれてしまっているのだけれど。

(いつから、こんなに欲張りになったんだろう……)

電気も点けないままソファーに座る。見ているだけでいいと最初は思っていたはずなのに、人間とは本当に欲深い生き物だ。先に惚れた方が負けっていうし、仕方ないかな。
暫くぼんやりとしていると、玄関の開く音が聞こえた。せめて電気ぐらい、と立ち上がって電気を点けようとしたとき。ふいにリビングへと入ってきた秀一さんに引き寄せられた。

「怪我は、無いな?」
「ないですよ。船に乗ってただけですし」
「…そうか」

秀一さんに抱きしめられて、それに返すように私も背に腕を回す。お互いが無事なことを確認するように強く抱き着けば、秀一さんの心音が聞こえる。彼が、生きてくれている証。

「呉羽」
「っ、」

名前を呼ばれて秀一さんを見上げれば軽々と抱き上げられて、そのままソファーへと座る。私は秀一さんの膝に、横向きに座らされた。
秀一さんはそのまま甘えるように私の首筋に顔を埋めて、キスをする。

「本当に、人魚でも抱いてる気分だな」
「殺されて、くれるんですか?」

もし私が人魚で、今短刀を持っているのだとしたら。彼はそれを受け入れてはくれるのだろうか。
秀一さんの頬に触れれば、同じように秀一さんが私の頬に触れる。そのままキスをして、指を絡ませていく。

「お前に、殺せるか。俺が、」
「ずるい人、」

もし私が人魚姫ならば。私は迷わず自らの死を選ぶだろう。殺せない。殺せるわけがない。愛する人を手にかけるだなんてこと、出来るほどの勇気を持ち合わせてはいない。
秀一さんの唇が、私の額に触れる。瞼に、頬に、耳に。低く甘い声色で私の名前を呼びながら。電気を点けないと、とどこか冷静な頭で考えるけれど、今はまだ秀一さんの甘さに酔いしれていたくて。
首筋に感じる痛みに、秀一さんの服を握る。

「もしも、」

どさり、と音がして、ソファーに押し倒される。真っ暗な部屋に差し込む月明かりだけが、秀一さんの姿を見せてくれる。熱を帯びたその眼差しが、ぞくりと私の背中を震わせる。
秀一さんは私の左手を取って、薬指にキスをした。

「もしもお前が人魚なら、俺はお前を間違えたりはしないさ」

フッ、と笑って、秀一さんが甘えるように私の胸元に顔を埋める。その姿が愛おしくて、私から身体を起こして秀一さんの額にキスをする。けれど、額だと不満だったのか秀一さんから噛み付くように唇にキスをされる。

「っ、んん…」

隙間から舌を絡ませて、お互いの吐息が混ざり合う。角度を変えながら、溶けそうになるぐらいに唇を重ねあう。ちゅ、とわざとらしくリップ音をさせて唇が離されて、また秀一さんが口角を上げた。

「俺は、絶対にお前を泡になんてさせないから安心しろ」
「じゃあ、逃げないように離さないでくださいね?」
「あぁ。逃げ出したくなるぐらい、掴んでてやる」

腰に回された腕に、力が込められる。少しだけ上機嫌に私に抱き着く彼が愛おしくて、私から秀一さんにキスをした。

2015.10.22
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