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流した涙を拭って一人考え事をしながら待っていると、昴さんがティーカップとティーポットを乗せたトレイを持って戻ってきた。
それを机に置くと昴さんは私の隣に腰を下ろし、ちょうどよく蒸らした紅茶をティーカップに注ぐ。用意してくれた紅茶はアールグレイらしく、部屋には柑橘系の香りが広がった。どうぞ、とすすめられて口をつけると、少し心が穏やかになったような気がした。

「落ち着きましたか?」
「すみません、ありがとうございます」

昴さんの気遣いには本当に驚かされる。そもそも一人暮らしの男性の家にアールグレイってあるものなんだ。私の勝手なイメージで、男の人はコーヒーを好んで飲むものだと思っていた。赤井さんがそうだったから、だけど。私がよくアールグレイを飲んでいるのを知ってか知らずか、それともただ単純に昴さんが紅茶好きなだけなのか。

「"赤井さん"……」

突然昴さんの口から出た予想外の言葉に、一瞬穏やかになった心がまた騒ぎ始めた。あまりにも不意を突かれたせいで身体は硬直し、持っているカップを落としそうになる。

「そんな顔をなさるということは、やはりその方が……」
「……はい。亡くなった恋人です」

どうして昴さんがその名前を知っているの。
まだ中身がたっぷり入ったカップを、震える手でゆっくりとソーサーに置いた。カチャン、と陶器のぶつかる音が小さく響く。

「やはりそうでしたか……。先程名前さんが倒れる前に、その名前を口にされていたのが少々気になりまして……」

昴さんは自分の顎に手を添えながら、まるで私の心の声が聞こえたかのように答えてくれた。私、あのとき無意識に赤井さんの名前を呼んでたんだ。

「………さっき、多分倒れる直前なんですけど、赤井さん……すみません、彼がいた気がしたんです……。昴さんと一緒に歩いていたとき、反対側の歩道に……」

私の言葉を聞いた途端、昴さんが顔を顰めた。昴さんのこんな怖い顔は初めて見た。私が赤井さんの名前を出してしまったからだろうか。いくらなんでも元彼の名前なんて知りたくなかったのかもしれない。
……そうか。赤井さんはもう、"元彼"なんだ。分かっていたはずなのに心が痛む。

「見間違い……ということはありませんか?」
「……分かりません。でもきっとよく似た別人だと思います。彼はもう亡くなったと聞いていますから……」

そう、さっき見た人はきっと別人。赤井さんはもういない。あの日以来ずっと連絡もとれないし、もうどこにもいないってことは頭では分かっている。けれど、心がどうしてもまだそれについていかない。別人だとは思うけど、別人であってほしくなかった。今でも赤井さんに会いたいと思う。

いろんな感情が入り交じりすぎて頭の中はぐちゃぐちゃ。完全に混乱し、また泣きそうになる。今日の私は情緒不安定だ。

隣で話を聞いてくれていた昴さんは軽く私の腕を掴み、自分の方へと引き寄せた。突然のことにされるがままの私は、そのまま昴さんに抱き寄せられ、胸にすっぽりと収まる形になってしまった。腕や胸板の感覚、そして上半身が感じる温もりに鼓動が早くなる。

……この感じ、赤井さんに似ている。

顔が見えないせいで余計に赤井さんに抱きしめられているような感覚になり、思わずその名を呼びそうになった。

「……僕を代わりにしていいと言いましたよね? それともやはり、"本物の赤井さん"でないといけませんか?」

何も答えられなかった。もちろん、会えるのなら赤井さんに会いたい。でもそんなことを昴さんに向かって言えるはずがない。

昴さんは多分、私の気持ちに気付いた上であえてこんな聞き方をしている。私が答えられないのもきっと分かっている。昴さんが静かに怒っているような気がした。

「名前さん……」

耳元で名前を囁かれ、肩がビクッと震える。怒っているかもしれないという私の予想に反して、まるで自分のこと以外考えるなと言わんばかりにとても優しい声が直接脳に響く。
その声で思わず顔を上げると、それを待っていたかのように左手で後頭部が固定され、昴さんから目を逸らすことを許されなくなった。


あ……キスされる……。


反射的にそう思って目を閉じた。なのに後頭部に添えられていた手も、私の背中に回されていた手も、何事もなかったかのようにゆっくりと離れていく。不思議になって恐る恐る目を開けると、変わらず目の前にいる昴さんが不敵な笑みを浮かべていた。

「期待しましたか? さすがに今の名前さんに手は出せませんよ。狼だと思われて今後警戒されても困りますから。まぁ、あなたが望んで下さるのでしたら話は別ですが」

昴さんの何か企んでいそうな笑みを見て、からかわれただけだということに気が付いた。自分の勘違いに気付き顔から火が出そうになる。恥ずかしさのあまり、昴さんの目を再び見ることはできなかった。

「すみません、冗談ですよ。少し元気になられたみたいで安心しました。遅くなってしまいますのでそろそろ送ります。立てますか?」

私の腰にもう一度手を回し、空いている方の手で私の手をとってゆっくりと立たせてくれた。

顔や声は全く違うものの、ついさっきまで見ていた夢の赤井さんと同じように昴さんが触れたせいで、反射的にキスされると思ってしまった。

あんなに昴さんと赤井さんは別人だって思っていたのに。
昴さんのことを本気で好きになれると思っていたのに。


やっぱり、もういないあの人の存在が大きすぎる。



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