20
昴さんの肩から顔を上げ、目の前にいる昴さんの頬を両手でそっと包み込む。前に昴さんが私にしてくれたのと同じように。どうやら今日の私は感情でしか行動できないみたい。

私の行動があまりにも思いがけなかったのか、昴さんからはいつもの笑顔が消え、とても驚いているようなどこか複雑な表情を見せた。それにも一切目を向けず、ゆっくりと昴さんの顔に自分の顔を近付ける。


唇が触れるまで、あと数センチ。


その数センチを埋めるように、更に距離を縮めて目を閉じる。お互いの唇が今にも触れそうになったそのとき。

……思っていたものとは違う感触がして、思わず目を開けた。私たちの接近した顔の間で、昴さんが人差し指を立てている。私の唇に触れたのは昴さんの指だった。

「いけませんよ。無理なさらないで下さい。あなたの中にはまだ"赤井さん"が居ますよね。今の気持ちのまま口づけを交わせば、名前さんはきっと後悔するのではないですか? あなたには無理強いをしたくありません。僕は名前さんを待ちますから。どうか焦らないで下さい」

そう言いながら昴さんは私の肩を軽く掴み、元の位置に押し戻した。途端に頭が冷静になり、一気に血の気が引いて青ざめる。


"大切にされている"とジョディさんが言っていた意味がようやく分かった気がした。


それと同時に自分の頬が濡れる感じがして、泣いているんだと分かった。突然零れた涙は悲しみなのか、苦しみなのか、それとも他の何かなのかは分からない。私の意思で止めることはできなかった。

「すばる、さっ……、ど、してっ……」
「名前さん?」

昴さんが私の顔を覗き込んでいるのが歪んだ視界に入り込むが、どんな表情で私を見ているかまでは見えなかった。
なんとか止めようと必死で拭っても、とめどなく溢れる涙にはそれすらも追い付かず、その涙と一緒に今まではっきり言えずにいた、今日昴さんに伝えようと思っていた気持ちも溢れ出した。

「も、くるしいですっ……。す、ばるさんのことっ、ちゃんとすきに……好きになりたいのにっ、あかい、さんのこと、忘れっ……られなくて……」

嗚咽まじりの声で、少しずつ自分の中に溜めていた醜い本心を吐き出す。全部話したら昴さんに幻滅されるかもしれない。でも言わずにこのまま付き合い続けるなんてできない。昴さんは震える私の背中をさすり、少しでも落ち着いて話せるように気を遣ってくれた。

「ほんと、に、最低なことっ、しているのは、わかってますっ……。すばるさん、にも……赤井さん、にもっ……。でも、わたし…もう、どうすればいいか、分かりませんっ……。も、こんな自分、大嫌いっ……!」
「名前さん、泣かないで。落ち着いてください。僕の事を利用していいとお伝えしましたよね?」

まるで子どもをあやすようにずっと背中をさすりながら、いつも以上に優しい声で昴さんは話しかけてくれる。そのおかげもあって少しずつ涙はおさまってきたけれど、昴さんのこの優しさが今は辛い。もう言葉は止められなかった。
堰を切ったように思いが溢れ出す。

「私が嫌なんですっ! 昴さんが、私のことを……思ってくださっているのは分かっています……。でももうこれ以上、昴さんの気持ちを、踏みにじりたくないんです。私が好きなのは、やっぱりまだ、赤井さんで……」

「昴さん……ほんとに優しい人で、私のことを救ってくれた人なのに……私のエゴで、その昴さんを傷付けたくないんですっ……。私のせいで、昴さんが辛い思いをしてほしくない……。突然赤井さんがいなくなってしまって、一人ぼっちになるのが怖くて……そんなときに昴さんが優しくしてくれたから、その優しさに甘えて昴さんを利用したんです……」

必死に涙をこらえながら、更に言葉を続ける。

「……昴さんは……それでもいいって言ってくれました。でも私、そんな自分を許せないんです。ひどいことして本当にごめんなさい……。こんなことだって、本当は思いたくもなかったし、言いたくなかったのにっ……!」

一旦おさまったはずの涙が再び目に溜まる。自分でも何が言いたいのか、結局どうしたいのかよく分からないけど、ぐちゃぐちゃで複雑な感情が胸の中で渦巻いていた。それが苦しくて、本当に苦しくてずっと押し潰されそうだった。もっと簡単に考えて、簡単に付き合うことができれば楽になれるのかもしれない。

でも私にはそんなことできなかった。

きっと昴さんもこんな面倒臭い女なんて嫌になっただろう。それならその方がいい。嫌われたなら昴さんとの関係はこれで終わりになる。そうすればこれ以上傷付けることもない。
このままお別れをした方が昴さんにとっては幸せなはずだ。

私が話し終わるまで何も言わずに聞いていた昴さんは、眉間に皺を寄せて苦虫を噛み潰したような表情をしている。

これでもう、本当に全部終わった。

"迷惑かけてごめんなさい、今まで本当にありがとうございました"

そう口にしようとしたら、昴さんが先に口を開いた。



「限界……ですね」



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