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「限界……ですね」
その言葉で、やっぱり昴さんももう終わりだということを悟っていたのが分かった。それなら話は早い。もうこれ以上昴さんのことを傷付けなくて済む。誰かを巻き込んで、その人が辛い思いをするところを見るくらいなら、自分一人で抱えて生きた方がよっぽど楽だと思った。
「昴さん、いっぱい迷惑かけてごめんなさい……。今まで本当にありがとうございました」
さっき伝えようと思った言葉を声に出し、再び零れ落ちそうな涙を必死で堪え、精一杯の笑顔を作る。
私はもうこの場所にいてはいけない。ここから立ち去る準備をしようと思って立ち上がろうとすると、目の前の男性にそれを阻まれた。
……上半身に温もりを感じる。
昴さんの両腕で体を包まれ、抱きしめられているのだと分かった。
なんで……?
今昴さんは限界だと言った。その言葉で私たちの関係に終止符を打ったのだと思ったのに、どうしてその人の腕の中にいるのだろう。昴さんの表情からそれを読み取ろうにも、しっかりと抱きしめられているせいで顔を見ることは叶わなかった。
昴さんからは赤井さんと同じ煙草の匂いがする。さっきよりも距離が近づいたせいか、その匂いはよりはっきりと私の鼻腔をくすぐった。
「名前……」
耳元で囁かれる声に、身体が大きく反応してしまった。いつもとは違う名前の呼び方。
──赤井さんと、同じ呼び方。
声は昴さんなのに、どこか切なく儚げで、そして切望するように私の名前を呼ぶこの人は、匂いも抱きしめる腕も相まってより赤井さんを彷彿とさせた。
「あか……っ、すばるさんどうし……んっ!?」
思わず「赤井さん」と言いそうになり、「昴さん」と言い直して話をしようとするが、それは昴さんの唇によって遮られた。
もう全くわけが分からない。
さっき私が拒まれたことを、今度は昴さんからされている。拒む間もなく。私の言葉を強引に奪ったキスは、その行動からは考えられないほど優しくて、とてもじゃないけど抵抗する気になれなかった。
触れるだけのキスを、何度も何度も角度を変えながら唇に落とされる。まるで、唇の感触を確かめるかのように。
私が抵抗しないのをいいことに、昴さんの舌が私の方に捩じ込まれた。突然のことに驚いて身を引こうとするけれど、しっかりと私を抱きしめる腕に勝てるはずもなく、そのまま頭まで固定され逃げ場を失った。私のその隙をつくかのように舌が触れ合い、そのまま優しく絡めとられれば、全身から力が抜け落ちて逃れることすら忘れてしまう。
いくら彼氏だとはいえ、突然こんなことをされれば少しくらい嫌悪感を抱いてもいいはずなのに、不思議と心が満たされていくような気がした。重なった唇の隙間からは時折息が漏れ、その甘く長い口づけに全身が溶かされそうになり、その感触に脳までも支配されそうになった。
……待って。私、このキスを覚えてる。
もう二度と触れることはできないと諦め、それでもずっと恋い焦がれていたあの人のものとまるで瓜二つ。抱きしめる腕も、頭に回された大きな手も赤井さんとそっくりで、目を閉じれば赤井さんと一緒にいるとしか思えなかった。
でもそんなことあるわけがない。
だってあの人は、赤井さんは、もう……。
「……っ、……あかい、さん……」
やっと唇が離されると、思わずあの人の名前を呟いてしまった。この距離で呟いた言葉はもちろん昴さんにも届いていて、一瞬息を飲んだのが分かった。
未だに昴さんの腕は私を抱えて離さないが、片手を自分の首辺りに持っていったかと思うと、その部分から"ピッ"という人間から出る音には似つかわしくない、妙な機械音が聞こえた。
何の音なのか考える間もなく、もう一度両手で私を強く抱きしめると、再び昴さんの吐息が私の耳にかかる。それだけで私の鼓動は益々早くなっていた。
「名前……」
えっ……?
全身に稲妻が走る。
昴さんのものよりももっと低い声が、私の耳元で囁いた。
耳から脳まで響くその声は、ずっと会いたくて会いたくて堪らなかった、愛しい人の声。
聞き間違えるはずがない。
ずっとこの声を聞きたかった。
この声で名前を呼んでほしかった。
全身が麻痺してしまったように身体は動かず、思考回路は完全に停止している。
考えることもままならない私の目からは、なぜか大粒の涙が次から次へと溢れ出していく。この人の声に身体が反応して、自分の意思とは関係なく流れ続ける涙は、昴さんの肩を静かに濡らした。
もう本当に、目の前で起こっていること全てが理解できない。
どうして昴さんから赤井さんの声がするの?
どうして昴さんのキスが赤井さんと同じなの?
腕の温もり、服から漂う微かな煙草の匂いも全て赤井さんなのに、外見だけがどう見ても赤井さんじゃない。
赤井さん、一体どこにいるの……?
今抱いている疑問を全て目の前の男性に伝えようとするけれど、うまく声が出せないでいた。
「名前、本当にすまない……」
完全に硬直してしまっている私をきつく抱きしめ、私の名前を繰り返す。その声は紛れもなく赤井さんのもので、静かに流れていた涙は嗚咽に変わり、"昴さん"と目を合わせてやっとの思いで言葉を紡いだ。
「ほ、とにっ、あかっ……、あかいさん、なの……っ……?」
「ああ。辛い思いをさせて悪かった」
そう言って、"昴さん"の顔を掴んだかと思うとマスクのような物を引き剥がし、その下からもう二度と会えないと思っていた最愛の人が現れた。叫び声をあげたいほど驚いたのに声にならず、私は言葉を失った。溢れる涙は止まらない。
本当に、本当に赤井さんなんだ。
目の前が滲んではいるもののその姿を見て、やっと目の前に赤井さんがいるということを認識できた。大好きで、本当に大好きで、いなくなったと聞いても信じられなくて、でもやっぱりいなくて……それでもなお思い続けていた人が、今私の目の前に帰って来た。
涙腺は完全に崩壊し、自分でも驚くほど涙はとどまることを知らない。ひたすら泣きじゃくる私の頭を自分の方に引き寄せ、私は赤井さんの胸に顔をうずめた。
今まで行き場のなかった手をそっと赤井さんの背中に回すと、それに応えてくれるかのようにまた強く抱きしめてくれて、私も赤井さんの存在を確かめるように抱きしめ返した。
やっと、やっと会えた。
ずっと会いたかった、大好きな人。
「おかえり、なさいっ……!」
「ああ、ただいま」
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