01
あの出来事の前に君に真実を告げなかったことをここまで後悔することになるとは、あの時は夢にも思わなかった。




"赤井秀一"が最期を迎えると決めたとき、どうしても姿を消す前に名前に会っておきたくなり、それが実行されると思われる数日前に彼女の家に会いに行った。

名前には俺の素性をあまり詳しくは教えていないが、特別それを深く聞かれる事もなかったし、俺も敢えて言わなかった。名前が全てを知ってしまったら、何かあったときに彼女を巻き込み、失ってしまうかもしれないと思ったから。

多忙極まりない俺に気を遣ってくれていたのか、名前からデートに誘われたのは数えるほど。たとえ約束をしていたとしても、当日に断りを入れる事も少なくない。だから予め会う約束をするよりも、当日に俺の都合で会う事の方が多かった。常に連絡を取り合える訳でもなく、メールが来た数日後に返事をする事は日常茶飯事。

……随分酷い男だと自覚している。しかし、それに対して責められるような事も、文句を言われるような事もなかった。

寂しい思いをさせているだろうと心配はしていた。だが、名前はそういった類いの言葉を俺に漏らす事もしない。愛の言葉を常々囁くようなタイプの女でもなかったが、彼女が俺の事を好いてくれているのはなんとなく分かっていた。

一見すると都合よく利用しているように思われかねないが、俺にそんなつもりは毛頭ない。俺にとっては大切な女性だった。だからどうしても危険に晒したくなかった。失いたくなかった。

名前に何も告げることなく突然姿を消すことは本当に不本意ではあるが、名前を守るためだ、仕方がない。彼女は強い。だから俺がいなくても大丈夫だ。そう高を括っていた。





名前の家に着くと、何も知らない彼女はいつもと変わらない笑顔で俺を迎えてくれた。女の子らしく、でも落ち着いた部屋。ここに来るのも今日が最後だな、と思い耽りながらソファーに腰を下ろす。

可愛らしいカップにコーヒーを用意して俺の前に置くと、そのまま俺の横に名前も座った。

「突然家に来るなんて珍しいですね」

隣に座った名前が不思議そうな顔をした。迎えには来るがそのまま出かけるか俺の部屋に連れていく事が多く、この部屋に入ることなど滅多にないため、そう言われるのも無理はない。

「どうしても名前に会いたくなってな。嫌だったか?」

名前は首を横に振り、少しはにかみながら答えてくれた。

「うれしいです。今日はお休みですか?」
「いや、少ししたらまた行かなければならない」
「そうですか……、いつもお疲れ様です」

俺を気遣いながらいつもの柔らかい笑顔を見せる名前が本当に愛おしく、決心が揺らぎそうになってしまう。しかしこれは俺自身が決めた事。今更どうする事もできなかった。本当はこうなる前に別れを告げておけば良かったのかもしれないが、俺にはどうしても名前と離れるという選択ができなかった。

だから、最後に名前に会ったときに言おうと思っていた事を口にした。

「名前、俺にもしものことがあったときは……」

「……俺のことは忘れてくれ」


名前は突然何を言い出すんだとでも言いたげな顔で俺の事を見た。そんな名前に構うことなく続ける。

「そのときは名前のことを大切に思ってくれるやつを見つければいい。俺に気兼ねする必要はない」

俺がいなくなった事を君が知ったとき、俺の存在が重荷とならないように。

本当は他のやつになんか死んでも渡したくないが、死んだ事になる俺はもう名前の側にはいてやれない。いない俺が名前を縛り付ける事で、名前の自由や幸せを奪ってしまう事の方が耐えられなかった。それなら遠くからでもいい。せめて名前の幸せだけでも願わせてくれ。
そんな願いを込めて、君にそう告げた。

「え……赤井さん、何を言ってるんですか……?」

思った通りの反応だった。目を見開き、本当に驚いたような顔をしている。彼女の目は、心なしか悲しみの色を浮かべたような気がした。

「そんな顔をするな。もしもの話、だ」
「もしもなんてやめてくださいよ。突然そんな事言われたらびっくりするじゃないですか」
「……悪かった」

今日で、名前に会うのも最後。こんな顔を見たい訳じゃない。花のように咲く名前の笑顔を、脳裏に焼き付けておきたかった。

少し不安そうな顔をした名前を引き寄せそっと抱きしめると、名前もそれに応えるように俺の背中に手を回してくれた。この温もりも、澄んだ瞳も、ふわりと香る甘い匂いも、指通りの良い艶やかな髪も、柔らかい肌も……名前の全てを自分自身に刻み込む。二度と会えなくても、俺は君を忘れない。君は俺のような酷い男は忘れて幸せになるんだ。

これで本当に最後になる。だから……これだけは許してくれ。

名前に深く、口づけた。



「すまない、時間だ」

唇を離し、静かに立ち上がる。名前も同じように立ち上がり、外まで見送ると言ってくれたが玄関まででいいと断りを入れた。

靴を履き、玄関のドアに手をかける前に振り返ると、そこにはさっきと変わらず優しく微笑む可愛らしい彼女がいた。
名前との別れを惜しむように再び彼女を腕の中に包み込み、触れるだけの口づけを落とす。

「お仕事頑張ってくださいね! 行ってらっしゃい」

「……あぁ」


俺と彼女を別つ扉が、パタンと静かな音を立てて閉まる。

もう君の元に帰ってくることができない俺には、行ってきます、とは言えなかった。



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