03
赤井さんが亡くなってから、どれくらいの月日が経った頃だろう。私が今までどおりの生活を取り戻し始めたのは。

私の暮らしの中に赤井さんがいなくなったことと、虚無感以外は以前と変わらない。

ジョディさんは仕事が忙しいみたいで会うことはできないけれど、たまに心配して連絡をくれる。自暴自棄になっていないか、赤井さんのあとを追おうとしていないか確認するためだろう。

喉を通らなかった食事も少しずつ食べられるようになった。何もやる気が起きないのもあって最近はほとんど自炊をしていなかったけれど、さすがにずっとそんな食生活を送っていては体に良くないのは自覚している。

「ご飯……作ろ……」

そう思って冷蔵庫を開けてみると、驚くほど食材が入っておらず、空っぽという言葉がぴったり合う。何をするのにも億劫で、仕事以外ではほとんど外出もしていなかったから当然と言えば当然だけれど。むしろこんなときでも仕事には行ける自分がすごいとさえ思う。

でもさすがにずっとこんな生活を続けていても、ひたすら堕落してしまうだけ。だから気分転換も兼ねて、久しぶりにスーパーに買い出しに行くことにした。





今日の晩ご飯は何にしよう。悩みながら、野菜や肉、魚など必要なものをかごに入れていく。他に何が必要だっただろう。そういえばそろそろ醤油もなくなりそうなことをふと思い出し、醤油のある陳列棚と向き合っていつもと同じものを探した。

「あった、けど……」

思ったよりも高いところに置いてあるせいで、もう少しで取れそうなのに届かない。台でもあれば、と思って見回しても近くにそんなものはなかった。何度か背伸びをしてみたけど取れなかったので、諦めて今回は別の種類に変えよう。そう思った矢先だった。

「これですか?」

「……え?」

突然横から聞き慣れない男性の声がした。声がする方を見てみると、見知らぬ眼鏡の男性がいつの間にか私の横に立っていて私が取ろうとしていたものを指差している。

「あ、はい……ちょっと届かなくて……」

その男性は私が取ろうとしていた醤油を二つ手に取り、どうぞと言ってその内の一つを私に差し出した。

「あ、ありがとうございます」

いつからここにいたのか分からないけれど、あんな必死に醤油を取ろうとしているのを人に見られていたなんて。まだ知り合いじゃないだけマシだけれど、顔が熱くて赤面しているのが自分でも分かる。

「僕もこの醤油を使っているんです」

そう言いながら男性は持っていたもう一つを自分のかごに入れた。私が棚の前を陣取ってしまったせいでこの人は醤油を取れなかったようだ。

「邪魔をしてしまいすみません」
「いえいえ、そんなことありませんよ。とても可愛らしい姿を見せていただきました」

男性は眼鏡の奥の細い瞳を更に細めて微笑んでいたけれど、私は戸惑いを隠せなかった。こんな、いかにも真面目そうな人が初対面の相手に可愛いと軽々しく口にするとは思わなかったから。やっぱり男の人の考えていることはよくわからない。なんとなくその男性の顔を見れず俯いた。

「ここにはよくいらっしゃるんですか?」

早くここから立ち去りたい。
そう思っているのに、男性は話を続けた。

「え……あ、はい。アパートがこの近くなので……」
「そうでしたか。僕もこの辺りで暮らしているんですが、ここであなたをお見かけしたのは初めてのような気がしましたので」
「そうですか……」

どうして初対面の人とこんな話をしているんだろう。この人もこの人だ。何でこんなに話しかけてくるんだろう。全く知らない人なのに。

私の怪訝そうな、いかにも警戒しているような表情を読み取ったのか、その男性は、はっとした顔をして話を途中でやめた。

「あ、すみません、お忙しいところ引き留めてしまって。それではまた」

そう言ってその眼鏡の男性は去っていった。何だったんだろうあの人。間違いなく初対面。どこかで見かけたような記憶もなければ、全く話したこともないはずなのに、どうにもそんな感じがしなかった。

どこか懐かしささえ覚えるような雰囲気を持っている不思議な人。



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