08
「名前さん?」

追いかけるように俺の腕を掴んだ名前の行動に、驚きを隠すことができなかった。ぽかんと立ち尽くし、斜め後ろにいる名前の方へと視線を移す。ただ立ち上がっただけなのだが、何故俺の腕を掴む必要があったのか。俺が君を置いて先に帰るとでも思ったのだろうか。

「……っ! ごめんなさいっ……!」

どうやら名前も自分の行動に思考が追いついていないようだ。俺が名前の名を呼んだ途端、まるで現実に引き戻されたかのように慌てて俺の腕を解放した。

「どうされましたか?」

沖矢昴となって以降、どうも名前の行動の真意が解らない。あまり俺に表情を見せないのも理由の一つだろう。さっきまでは半ば強制的に俺の方を向かせていたが、名前自らとなるといつも俯きがちになる。現に今も下を向いたまま、俺の目を見ようとはしない。

「……今、また昴さんがあの人に見えて……またいなくなっちゃうんじゃないかって……。そう思ったら、つい咄嗟に……」

言い終わる頃には、名前の声は聞こえるか聞こえないか程の小さなものとなっていた。後ろめたさなのか申し訳なさなのか。どちらであったとしても、たとえそれ以外に何か思うところがあったとしても、今の名前の言葉は俺にとっては好都合でしかない。

つまり君は、"俺"を引き留めたいがために沖矢昴の腕を引いたということだろう。どうして突然俺だと思ったのかは分からないが、そうであれば先程名前に伝えた代替案を、名前は無意識の内に受け入れていることになる。

「それは、肯定……とみなしてよろしいですか?」

俺が話しかけると名前はやっと顔を上げた。まだ決断しきれないところがあるのか、潤んだ瞳からは迷いが感じられる。これ以上迷うことなどないはずなのだが、決心がつかないようだった。しかし肯定以外の返事はできないだろう。もちろんさせるつもりもない。

少しそのまま待っていると名前はやっと頷き、蚊の鳴くような声で「はい」と返事をした。暖かな風が頬を撫で、俺たちを包み込んだような気がした。





「帰りましょう。もう日が暮れてしまいましたね」

名前を納得させるのに随分と時間がかかってしまったらしく、西から茜空が広がっている。赤く燃える空が綺麗だと思えるのは、名前が隣にいるからだろうか。だがどこか感傷的な気持ちになるのも、名前が隣にいるからだろう。名前に家まで送ると伝え、車を停めている駐車場に向かった。

助手席に名前を乗せ、名前の家まで車を走らせる。信号待ちの合間に名前の方を見ると、未だに先程出した結論に悩んでいるのか、無表情のままグローブボックスの辺りで視線が止まっていた。

「そんな顔しないで下さい。もっと軽く考えていただければいいですから」
「えっ……? あ、はい……」

信号が、青に変わった。

「僕があなたと一緒に居たい。それだけのことですよ。無理強いをしてしまったようですみません。でもそれほど本気だと言うことは分かっていただきたい」

車を走らせながら名前を説得するように話しかける。車のエンジン音に混じって「ありがとうございます」と呟く声が聞こえた。


「送っていただいてありがとうございました」

降りる直前、名前は俺の方に一度顔を向けた。さっきまで泣いていた彼女の目にはまだ若干赤みが残っている。そんな名前がどうしても心配になってしまい、車を降りようとする名前の手に自分の手を重ねた。名前の手は冷たかった。

「何かあったら遠慮せずにいつでも連絡してください。あなたが辛いときには、これからは僕が名前さんの支えになりますから。もちろん、名前さんからの連絡でしたら何もないときでも歓迎しますよ」

それだけ名前に伝え、「引き留めてすみません」と付け加えてから手を離すと、名前はお辞儀をしながらゆっくりと車を降りた。

名前が部屋に入るのを見届けてから帰ろうと思っていたが、どうやら名前も同じ事を思っていたらしくなかなか部屋の中に入ろうとしない。いつまでもこうしていても埒が明かないので、挨拶を交わし、車を走らせて帰路に着いた。


工藤邸に戻り、名前の前では吸わない煙草を咥えながらグラスにバーボンを注ぎ、改めて今日のことを思い出す。

彼女は不本意ながらも俺の要求を呑み、沖矢昴の恋人となってくれた。強引な誘導ではあったものの、なんとか名前を繋ぎ止める事ができた。形式的なものかもしれないが、"恋人"という肩書きがある以上、名前を他の男に取られるという心配も同時になくなった。

突然決めた事だが、本当にこれで良かったのかという懸念も残る。彼女がまたあの頃のような笑顔をみせてくれる日は来るのだろうか。いくら考えたとしても明白な答えが出ることはない。

心の片隅で"何か"引っ掛かるものを感じながらも、その"何か"が分かることはなかった。



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