09
沖矢昴として名前と付き合う場合、どれほどの距離感でいるべきなのだろうか。俺にとっても急な決断であったため、そこまで考えが及ばなかった。連絡を取り合う頻度、会う回数。俺のときと同じにする訳にはいかないだろう。
だが、まだ乗り気ではなさそうな名前に対し、こちらばかり積極的に動いても拒絶されるのではないかと慎重になる。それに万が一の事を考えると、あまり親しくしているところを探りを入れている奴らに見られるのも危険だ。
結局数日おきに連絡を取り合い、名前と時間が合うときに近くで顔を合わせて軽く話す程度にしていた。
しかし、これで付き合っていると言ってもよいのだろうか。流石にこの程度の付き合いを続けていても、名前の気持ちが沖矢昴に傾くとは思えない。
《今度の日曜日、よろしければ食事でも一緒に如何ですか?》
名前にやっとこんなメッセージを送ったのは、付き合うようになってから数週間ほど経った時の事だった。
◇
約束の日曜日。この間と同じ米花公園の前で名前と待ち合わせをしていた。念のため辺りを警戒しつつ名前が来るのを待っていると、小走りでこちらへ向かってくる彼女の姿が見える。小動物のようで可愛らしいのだが、転ばれても困るので俺も彼女の方へと足を進めた。
「すみません、待ちましたか?」
「そんなことありませんよ。それでは行きましょうか」
俺が歩き始めると、名前も俺に続いて歩き出す。
しばらく歩くと俺が目指していた場所に到着したが、辿り着いた場所は予想外の場所だった。一瞬入るべきか迷ったが、今更他に移動もできない。意を決して店内へと足を踏み入れた。そこは都会らしからぬ落ち着いた所で、女性ばかりが集まるというような雰囲気でもない。あまり知られていない場所なのか、日曜日だというのに客はまばらですぐ席へと案内された。
「素敵なところですね」
「気に入っていただけたのであれば何よりです」
ジョディが高校の教師をしていたとき生徒にこの喫茶店の存在を教えてもらったらしく、俺も話には聞いていた。だがまさかあの探偵事務所の真下の事だったとは。そんな大事なことは予め伝えておけ、とジョディと顔を合わせられるのであれば言ってやるのだが、俺の下調べ不足は否めない。
知人らに出くわしてしまうのではないか。そう思ったが、休日の昼間にわざわざ彼らがここに来ることもないだろう。名前も初めて来たようで、時々周囲を見回しながらメニューを眺めている。
「私これにします。昴さん何にしますか?」
「では僕も名前さんと同じものを」
店員の女性に声をかけ、オムライスを二つ注文する。話しながら待っていると、先程の店員がオムライスを二つ運んできた。
「お待たせしました。ごゆっくりどうぞ」
「ありがとうございます」
名前がお礼を伝えると、店員はにこりと笑ってカウンターの方へと戻っていった。
「いただきます」
食べ始める名前につられ、俺もスプーンを手にした。一口食べた名前は満面の笑みを浮かべながら、その後も美味しそうに口へと運ぶ。
「やはり名前さんは笑顔の方が似合いますよ。その笑顔をずっと側で見ていたいと思ったんです。あなたの笑顔は本当に可愛らしいですから」
思ったままのことを口にできるのは、この姿だからこそなのかもしれない。君の笑顔に今まで俺がどれほど救われていたか、君は知りもしないだろう。頬を赤く染める名前の視線は下がり、俺の顔を見ようとしなくなった。
「あれ。昴さんって左利きなんですね」
どうやら名前は話をそらしたいらしく、突然利き手の話を始めた。
「ええ。それがどうかされましたか?」
「いえ、亡くなった彼も左利きだったので同じだなって思って。あ、すみません、今は昴さんと居るのに……」
名前は沖矢昴が左利きであることを知らなかったらしい。だからといって俺の正体に気付いた訳ではないようなので、素知らぬ顔で話を合わせた。
「構いませんよ。重ねていただいていいと言ったのは僕の方ですから」
「でも私、ちゃんと昴さんと向き合います。昴さんは昴さんで、彼じゃない。もういない人のことをいつまでも引きずってては前に進めませんから」
俺の方を向き直し、はっきりと言い切った。思っていた以上に名前は沖矢昴に対し好感を持ってくれているようだ。これなら計画どおりにいくかもしれない、そう思った。名前の呟きを聞くまでは。
「……いっそのこと全部忘れて、なかったことにできたら楽になれるのに……」
忘れてほしいとあれほど願っていたはずなのに、いざ名前の口から忘れたいという言葉が出ると、途端に恐ろしくなった。名前は俺と共に過ごした時間も含め、全てなかったことにしたいと言う。
──名前の中から、俺が消える。
「その彼のことを忘れる必要はないと思いますよ。今の名前さんがいるのは、その亡くなった恋人と過ごした日々があってのこと。それを全てなかったことにしてしまっては、今のあなたを全て否定することになります。ですから、忘れたいなんて仰らないで下さい。きっとその彼も、名前さんの幸せをどこかで願っているはずですよ」
……何を言っているんだ、俺は。
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