10
「あまり遅くなってしまってもいけませんし、今日はもう帰りましょうか」
店を出てから名前にそう声をかけて、ここへ来たときと同じ道を辿る。困惑している俺とは裏腹に、名前は何かが吹っ切れたように晴々とした表情をしていた。俺を忘れる決心がついたとでも言うのだろうか。
確かに俺は名前に忘れろと言った。それなのに今さら忘れられるのが恐ろしいだと? ふざけるのも大概にしろ。全ては彼女を守るためだろう。そのためなら自分を犠牲にする事など厭わない、そう決意したのではないのか。
たとえ俺を忘れたとしても、沖矢昴として名前を側に置くことができる。もう一度名前が笑いかけてくれる。それで十分だ。
そもそもこの選択をした本来の目的は名前を巻き込まないためだった。それならむしろ、俺を忘れた方が好都合なはず。このまま、俺のことなど忘れてしまえばいい。名前のためを思うのなら尚更だ。
そんなことを考えながら歩いていると、俺の隣を歩いていたはずの名前がその場に立ち止まり、突然俺の視界の外へと消えた。どうしたのかと思いすぐ振り返ると、そこには顔面蒼白、苦しそうに胸を押さえ、立っているのがやっとだと言えるほど足を震わせている彼女の姿があった。ふらついている名前が倒れてしまわないよう腰に腕を回し、俺の方へと抱き寄せて体を支える。
「名前さん、どうしました? 大丈夫ですか?」
一体名前に何があったのだろうか。何度彼女の名前を呼んでも、俺の呼びかけに応える事はない。
「名前さん? 名前さん! ……チッ、名前!」
「あ、かい……さ……」
名前が意識を手放す直前、呟いたのは俺の本当の名だった。
なぜ俺の名前を呼んだ?
いや、今はそんなことよりも名前の身が最優先だ。いくら支えていたとは言っても、意識を失った名前の足に当然力は入っておらず、地面へと引っ張られるように膝から崩れ落ちた。
そう人通りが多い訳ではないが、道行く人々は皆何事かと俺たちの方へと視線を向けながら通り過ぎていく。だが一人、俺より少し年上だと思われるような眼鏡をかけた見知らぬ男が、俺たちの前で立ち止まり声をかけてきた。
「大丈夫? 君この子の彼氏? 駄目だろこんなになるまで連れ回したら。家どこ? 君一人でこの子連れていけなさそうだから手伝ってあげるよ」
初対面で何も事情を知らないくせに馴れ馴れしい男だ。名前の知り合いだろうか。いや、この物言いはそういう訳ではなさそうだ。善意のつもりなのか、それとも下心でもあるのか読み取ることは不可能だったが、男は早口でそう言うと俺の返事を聞く前に名前の腕を掴み、自分の肩へと回し始めた。
「彼女に触るな」
いくら善意であったとしても名前に他の男が触れるなど嫌悪感しかなく、睨みを利かせながら威圧的に言い放つ。俺以外の男が、しかも俺の目の前で名前に触れるなどとても許せるものではない。さっきまでの強気な態度は一転し、男は戦慄が走ったようにすぐ名前から手を引いた。
「……すみません。僕一人で連れて帰れますから」
今度はいつもの沖矢昴の口調で、できるだけ穏やかに、それでも冷徹に男を拒絶する。言い終わる頃には青ざめた顔をして、逃げるようにこの場から去っていった。
名前の背中と膝の裏に腕を通し、所謂お姫様抱っこと呼ばれる抱き方で身体を抱き上げる。そして、出来るだけ振動を与えないようゆっくりと歩き始めた。
ここはやはり名前の家に連れていくべきだろうか。しかし今の俺たちの関係で、勝手に名前の部屋に足を踏み入れるのはさすがに憚られる。
となると、連れていける場所は一ヶ所しかない。俺が暮らしている、工藤邸。妙な警戒をされたくないが為に家に招き入れるのは躊躇いがあったが、今回ばかりはやむを得ないだろう。
それにしても、先程の男は一体何者だったのだろうか。多少気になりはしたが、この際あの男が誰なのかは最早どうでもいい。ただ、俺以外の男に名前が身を預けるところを想像するだけで虫唾が走る。
他の男を見つければいい、一度は確かにそう思った。それが名前の幸せだと考えていたからだ。だが、もし本当に他の男と名前が結ばれるようなことになったとき、俺は心から祝福してやれるのだろうか。それでも、名前の幸せを願ってやれるのだろうか。
俺の行動と感情が伴っていないことなどとうの昔に気付いていた。だがそれに気付かないように振る舞い続けることしかできなかった。感情のまま行動したところで上手くいくはずがない。
結局俺はどうしたいんだ。何がしたいんだ。
歩きながら名前の様子を窺うが、一向に顔色が良くなる気配はなかった。よく見ると、目の端には涙の伝った跡が残っている。そういえば気を失う前、俺の名を、赤井秀一の名を呼んでいた。何故突然その名を呟いたのか。
名前が倒れた事と因果関係はあるのだろうか。
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