12
用意した紅茶を持って部屋に戻ると、名前はもう涙を流してはいなかったが、朧げな表情をしたままじっと座っていた。
「お待たせしました」
名前の目の前のテーブルの上に紅茶やカップの一式をトレイごと置き、隣に座って紅茶を注ぐ。コーヒーが苦手だと話す名前がこの家に来るようなことがあればと、もしものことを考えて購入しておいた紅茶だったが、本当に名前がここを訪れる日が来るとは思いもしなかった。
「紅茶お好きでしたよね」
カップを差し出しながら「どうぞ」と声をかけると、紅茶を飲んだ名前の顔が少し落ち着きを取り戻したような気がした。アールグレイにしたのは、香り高くリラックス効果があると言われているからだ。今の名前には最も適したものだろう。
「落ち着きましたか?」
「すみません、ありがとうございます」
ベルガモットの芳しい香りを確かめながら少しずつ口にする名前に、先程のようなぼんやりとした表情は見受けられなかった。聞くのなら今しかない。
「"赤井さん"……」
自らの名を口に出した途端、口元まで運んでいたカップを持つ手が止まり、凍りついたようにぴくりとも動かなくなった。俺がその名を知っているとは思わなかったのだろう。彼女の顔が一瞬で険しいものへと変わった。
「そんな顔をなさるということは、やはりその方が……」
「……はい。亡くなった恋人です」
手を震わせながら持っていたカップを置き、手と同じように声も震わせる。横から見える名前の目には、驚きや疑念、そして悲しみなど複雑な感情が宿っているような気がした。
「やはりそうでしたか……。先程名前さんが倒れる前に、その名前を口にされていたのが少々気になりまして……」
なぜあのタイミングで俺の名を呼んだのかどうにも理解できず、どうしても尋ねたかった。表情を変えぬまま、名前はゆっくりと話し出す。
「………さっき、多分倒れる直前なんですけど、赤井さん……すみません、彼がいた気がしたんです……。昴さんと一緒に歩いていたとき、反対側の歩道に……」
その言葉を聞いて、名前以上に俺の方が驚いた。同時に不快感を隠すことができず、自分でも眉間に皺が寄っているのが分かるほどだった。そんな事ある訳がない。俺はずっとこの姿で君の隣にいたのだから。
「見間違い……ということはありませんか?」
「……分かりません。でもきっとよく似た別人だと思います。彼はもう亡くなったと聞いていますから……」
そう話し終えると名前はまた顔を歪め、今にも泣き出しそうな表情を俺に向けた。泣かせたかった訳ではない、苦しめようとした訳ではない。今俺の名前を出したのは、俺の知らないところで何が起こっていたのかを知りたかったからだ。だがきっと、これが先程名前が泣いていた理由だろう。
まさかこれは奴らの仕業だろうか。いや、奴らが彼女に近づいたところで何もメリットはないはず。俺に似た男を見かけた場所も反対側の歩道ということであれば、奴らも彼女に接触しようとした訳ではないかもしれない。だが彼女が俺らしき人物を見かけたというのは事実だ。
溢れそうな涙を浮かべる名前を見て、堪らず細い腕を引き強引に俺の元へと引き寄せた。名前はバランスを崩し、綺麗に俺の胸へと飛び込む。
彼女がこれ以上苦しむくらいなら、やはり俺のことはもう忘れた方がいい。
「……僕を代わりにしていいと言いましたよね? それともやはり、"本物の赤井さん"でないといけませんか?」
名前が何も言わないことは分かっていた。沖矢昴の前で俺を求めるようなことを彼女はしない。それが沖矢昴を傷付けることになる、と気付いているからだ。卑怯だと言われようとも、俺にはこんなやり方しかできなかった。もしここで彼女が沖矢昴を傷付けてまで「はい」と答えていたら、今とは違う未来があったのかもしれない。
「名前さん……」
耳元でできる限り優しく囁くと名前は肩を跳ね上げ、俺の声に過敏に反応を示した。それはそれで嫉妬心が芽生えるが、今はそんな事を言っている場合ではない。
顔を上げた名前の俺を見つめる眼差しは、いつも沖矢昴に向けているものではなく、本来の俺を、赤井秀一を見つめるものと酷似していた。その視線に俺は一瞬沖矢昴であることを忘れ、彼女の後頭部に手を添える。自然に見つめ合う体勢になると、続きを待っているかのように名前はゆっくりと瞼を閉じた。
そんな彼女に吸い寄せられるように顔を近づけようと動いたとき、不意に眼鏡が視界に入り仮の姿であることを思い出す。このまま強引に唇を奪ってしまうと、名前はまた新たな罪悪感を抱えることになるかもしれない。どこか冷静な自分がそれを察知し名前に添えていた手を離すと、名前もゆっくりと目を開いた。
「期待しましたか? さすがに今の名前さんに手は出せませんよ。狼だと思われて今後警戒されても困りますから。まぁ、あなたが望んで下さるのでしたら話は別ですが」
そんな言葉も本当はただの誤魔化しに過ぎない。しかし名前は俺の言葉を鵜呑みにしているようで、頬を赤らめてそっぽを向いてしまった。
「すみません、冗談ですよ。少し元気になられたみたいで安心しました。遅くなってしまいますのでそろそろ送ります。立てますか?」
「あ、はい……」
名前の体を支えるようにして立ち上がらせると、先程みたいにふらつくことはなかった。これなら歩いて帰れるだろう。
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