18
突然顔を上げた名前は未だに瞳を潤ませていたが、何か決意を宿した目をしていた。そう感じた直後、彼女の両手が俺の頬を包み、少しずつ俺の方へと近づいてくる。

一体何をする気だというのか。

いや、この状況で考えられることは一つしかない。俺と付き合っているときでさえも受け身なことが多かった彼女が、自らの意思で沖矢昴にキスをしようとしている。
俺の頬に触れている彼女の手は、震えていた。


……このまま流されてはいけない。


まだ残っている理性と冷静な判断力が自然に俺を動かした。これ以上俺との距離を縮められないように、唇が触れることがないように、彼女と俺の間に腕を割り込ませ、名前の唇に人差し指を添える。俺が拒むとは思わなかったのだろう。名前は閉じた瞼を持ち上げると、驚いたように目を見開いた。

「いけませんよ。無理なさらないで下さい。あなたの中にはまだ"赤井さん"が居ますよね。今の気持ちのまま口づけを交わせば、名前さんはきっと後悔するのではないですか? あなたには無理強いをしたくありません。僕は名前さんを待ちますから。どうか焦らないで下さい」

近付いてきた彼女の肩に手を置き、引き離すように軽く体を押し返す。今ここで、このままの彼女を受け入れるわけにはいかなかった。

まだ赤井秀一のことを思ってくれているのは、彼女の様子を見ていれば容易に想像がつく。ただでさえ純粋な彼女が好きでもない相手と口づけを交わせば、後に冷静になったとき、間違いなく自分を責め続けるだろう。

そしてその傷は一生癒えることはなく、彼女の深い苦しみとなる可能性が高い。ただでさえ傷心しているというのに、これ以上彼女を追い詰めることが分かっていながらその行動に応える訳にはいかなかった。

ソファーに座り直した彼女は顔色を失い、とうとう瞳からは大粒の涙が零れ落ちた。

「すばる、さっ……、ど、してっ……」
「名前さん?」

とめどなく溢れる涙を拭いながら、必死で俺に何かを伝えようとしている。しゃくり上げながら話す名前の背中に手を回し、少しでも落ち着きを取り戻せるよう背中をゆっくりとさすりあげた。そして途切れ途切れに紡がれる彼女の言葉を一言も聞き漏らすことがないよう、神経を集中させながら耳を傾けた。

「も、くるしいですっ……。す、ばるさんのことっ、ちゃんとすきに……好きになりたいのにっ、あかい、さんのこと、忘れっ……られなくて……。ほんと、に、最低なことっ、しているのは、わかってますっ……。すばるさん、にも……赤井さん、にもっ……。でも、わたし…もう、どうすればいいか、分かりませんっ……。も、こんな自分、大嫌いっ……!」

今の名前は、自暴自棄になっているようだった。嗚咽交じりの言葉は、きっと彼女の本心なのだろう。

「名前さん、泣かないで。落ち着いてください。僕の事を利用していいとお伝えしましたよね?」

彼女を刺激することがないよう、諭すようにゆっくりと、そしてできる限り穏やかに話しかける。彼女の背中に回した手も休めることはなかった。しかし俺がかけた言葉は逆効果だったようで、彼女の口から溢れる思いは止まらない。

「私が嫌なんですっ! 昴さんが、私のことを……思ってくださっているのは分かっています……。でももうこれ以上、昴さんの気持ちを、踏みにじりたくないんです。私が好きなのは、やっぱりまだ、赤井さんで……」

「昴さん……ほんとに優しい人で、私のことを救ってくれた人なのに……私のエゴで、その昴さんを傷付けたくないんですっ……。私のせいで、昴さんが辛い思いをしてほしくない……。突然赤井さんがいなくなってしまって、一人ぼっちになるのが怖くて……そんなときに昴さんが優しくしてくれたから、その優しさに甘えて昴さんを利用したんです……」

「……昴さんは……それでもいいって言ってくれました。でも私、そんな自分を許せないんです。ひどいことして本当にごめんなさい……。こんなことだって、本当は思いたくもなかったし、言いたくなかったのにっ……!」

彼女の悲痛な叫ぶような声、そして彼女が流している止まることのない涙が、彼女の気持ち全てを物語っている。名前がここまで自分の感情を露にするのは、今まで一緒に過ごした中でも初めてのことだった。彼女の言葉一つ一つが鉛のように、俺の心に重くのし掛かる。

俺はここまで彼女のことを追い詰めてしまっていたのか。彼女自身のことを嫌いだと言わせ、許せないとまで言わせてしまうほどに。心優しい彼女には、誰かを利用して、傷つけてまで自分が幸せになることはできない。そう言いたいのだろう。

そんな純粋で真っ直ぐな名前のことを愛していたというのに、それを俺は自分の手で奪い、壊そうとまでしてしまった。ここまで彼女を追い詰めてしまった自分に腸が煮えくり返る。

彼女を巻き込みたくないのであれば、俺が奴らの手から守ればいいだけの話だろう。大事な物は自らの手で守り抜く。そんな簡単な話だったというのに、俺は今まで何をしていたのだろう。

もうこれ以上、彼女にこんな思いをさせることはできない。ここまで本気で俺のことを思ってくれている名前に、これ以上偽りの姿で、偽りの言葉を伝えるわけにはいかない。


今が全てを打ち明けるときだと悟り、覚悟を決めた。


「限界……ですね」



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