19
とうとう全てを打ち明ける時が来た。どこから話すべきなのか、どう切り出そうかと思い言葉を選んでいると、俺より先に彼女が口を開いた。
「昴さん、いっぱい迷惑かけてごめんなさい……。今まで本当にありがとうございました」
目にいっぱいの涙を溜めたまま、引き攣った笑顔を俺に向けた。彼女は何か勘違いをしている。俺は一言も別れの言葉を口に出したつもりはない。しかし名前が立ち上がろうとするのが分かり、言葉が出るよりも先に体が動いた。彼女がここから去っていかないように、彼女を強く抱きしめる。
突然の俺の行動に理解が追い付かないのか、俺の腕から逃れようと身を捩るが離すはずはない。名前がもうどこにも行かないように、腕の中にきつく閉じ込めた。俺には君を手放すことはできない。名前が必要だ。
「名前……」
求めるように彼女の名前を呼ぶと、彼女はびくっと体を震わせた。彼女を失うことが、名前が名前でなくなってしまうことが、これほどまでに恐ろしいことだとは思いもしなかった。そう自覚すればするほど、心が、体が彼女を求めている。
「あか……っ、すばるさんどうし……んっ!?」
言葉を奪うように名前の唇に強引に口づけた。柔らかな唇の感触を確かめるように、何度も口づけを落とす。本当は彼女に真実を告げることの方が先であるというのに、それすらも忘れ、ただひたすら彼女の唇を貪った。
触れるだけでは飽き足らず、舌で歯列を軽くなぞると彼女の力が抜けたので、その隙をつくように口内へと舌を押し込んだ。さすがにそこまでされないと思っていたのか彼女は身を引こうとしたが、そんなことを許すはずがない。
狭い口内で逃げ回ろうとする彼女の舌を見つけると、すぐに自分のものと絡ませた。唇より柔らかい舌に擦り合わせる度に、彼女の体が小さく反応を示す。最初は多少嫌がる素振りを見せたものの、徐々に彼女も俺の口づけに応えるかのように自ら舌を絡ませた。彼女もまた、相手が沖矢昴であることを忘れるかのように。
彼女の甘い口内をひたすら堪能していると、さすがに苦しいのか合わせた唇の隙間から吐息が漏れた。離したくない気持ちもあるが、これではキリがない。まだ名前には言わなければならないことが残っている。名残惜しみながらも彼女の唇を解放した。
「……っ、……あかい、さん……」
唇を離すと彼女は、はっきりと俺の名を呼んだ。名前は目の前にいるのが俺だということに気付いたのだろうか。それとも、ただ俺を求め、無意識に俺の名を口走っただけなのだろうか。そんなことは最早どちらでもいい。
──俺の本当の声で、彼女の名を呼びたい。
そう思ったら、行動に移すのは早かった。片手を自分の首に持っていき、変声機のスイッチに手をかける。スイッチを押したあと、再び彼女を両腕で強く抱きしめた。
「名前……」
抱きしめる腕の力を緩めることなく、ずっと俺の声で呼びたかったその名前を、彼女の耳元で囁いた。突然声が変わったことに驚いたのか、彼女の体は硬直したように全く動かない。その声が死んだと思っていた恋人のものなのだから、驚くのは無理もないだろう。
彼女はまだぴくりとも動かないが、俺の肩には服を通して確かに温かいものが滴り落ちていた。本当に俺は君を泣かせてばかりだな。彼女が何か言いたげに息を吐くが、涙に飲み込まれて声になることはなかった。
「名前、本当にすまない……」
ここまで君を追い詰めるつもりはなかった。ただ君を守りたい。たったそれだけのことだったのに、ここまで君を苦しめることになるとは思いもしなかった。彼女に縋るような思いで、愛しい恋人の名を何度も繰り返し呼び続ける。
「ほ、とにっ、あかっ……、あかいさん、なの……っ……?」
俺の腕の中で彼女が身動いだと思ったら俺の肩から顔を外し、泣き腫らした顔で嗚咽混じりにやっと言葉を発した。彼女の顔を見てようやく思い出した。誰かを失うことの辛さを俺が一番よく分かっていたはずなのに、同じ思いをさせてしまったのだと。
「ああ。辛い思いをさせて悪かった」
とうとう彼女の前でマスクを取る時が来たようだ。顎辺りにあるマスクの繋ぎ目に手をかけ、勢いよく上へと引き剥がす。突然現れた俺の姿に彼女は驚きの声すらあげることができず、絶句したまま呆然と俺を見つめている。彼女の瞳からは、今も止まることのない大粒の涙が零れ続けていた。
そんな彼女をこれ以上見てはいられず、頭を俺の胸へと抱き寄せる。今度は彼女の手が俺の背中に回され、先程まで何も感じなかった背中に温もりを感じ、やっと心につっかえていたものが取れたような、心が満たされていくような、そんな不思議な感じがした。
ここまで追い詰めて苦しめてしまったのに、名前は怒りをぶつけることもなければ責めることもしない。俺に縋るように回された手からは、彼女がずっと俺を待っていてくれたことが痛いほど伝わってくる。
「おかえり、なさいっ……!」
帰る場所を失くしたと思っていた俺を、名前はずっと待っていてくれた。俺の居場所はここなのだと、名前が教えてくれた。"行ってきます"も言えなかった俺が、やっと君にこの言葉を言える。
ずっと待っていてくれてありがとう。
「ああ、ただいま」
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