20
俺が生きていたことが分かった後の名前は、俺にしがみつくように抱きつき、抱きしめる腕を緩めようとはしなかった。名前が自らここまで俺に縋ることなど今までになかったため、少し驚きはしたが想像以上の彼女の気持ちに嬉しくもあった。
そんな彼女が愛しくてしょうがない。俺も名前の気持ちに応えるように強く抱きしめ返すと、彼女も更に俺と近づくために首へと腕を回してくれた。彼女の吐息が首にかかると同時に、すすり泣くような声が耳に入る。そっと頭を撫でてやると安心したように俺に寄りかかってきた。いつも以上に素直で従順な彼女が可愛らしく、とにかく愛おしい。
首元でじゃれるように甘える彼女がふと顔を上げ、潤んだ瞳で俺のことを見上げた。目が合った名前に微笑みかけるように見つめると、彼女もまた表情を緩ませ、その拍子に目に溜まった雫が零れ落ちた。名前の涙を人差し指で掬い、そのまま瞼に唇を寄せてそっと口づける。俺が唇を離すと再び潤んだ瞳を覗かせ、もう一度俺に抱きついた。
「赤井さん……もう、二度と会えないと思ってた……!」
「君には本当に悪いことをしたと思っている」
本当はもっと彼女を抱きしめていたい。だが名前の目を見て話をしたい。一旦寄せた体を引き離し、肩に手を置いたまま名前を見つめた。
「……全ては任務のため、そして君を巻き込まないために仕組んだことだった」
俺は名前に全てを告げることを決意した。
「任務……? どういう……ことですか……?」
「君にはずっと黙っていたが、俺は連邦捜査局……FBIの捜査官だ。ある捜査のために日本に来ていたが、その捜査の中でどうしても俺は死んだと偽装しなければならなかった。そしてこの変声機とマスクで"沖矢昴"に姿を変え、捜査を続けていた。このことが表に出てしまっては捜査は難航し、この件に関わった者にも危害が及ぶ可能性が高い。だからジョディにも、もちろん君にも真実を告げることができなかった」
簡単にではあるがここまでの経緯を伝えると、名前は開いた口が塞がらないようでぽかんとしたまま俺を見つめている。今まで何ひとつとして伝えていなかったのだ。理解が追い付かないのも無理ないだろう。
「ジョディにも訳あってこの事を話したが、まさか名前にも話すことになるとはな。……本当は"沖矢昴"としても名前と接触する気はなかったんだが……」
あのタイミングで彼女と接触してしまったことで、歯車が狂い始めた。俺が彼女を求めてしまったせいで余計に苦しめ、いらぬ選択を迫り、彼女を悩ませた。全ては俺が自ら引き起こしてしまったことだ。それが自分でも分かっているため、名前の顔を見続けることができなかった。
「じゃあ……どうして……」
「……やはり俺には名前を放っておくことができなかった。あの日偶然見かけた君があまりにも別人のようで、どうしても声をかけずにはいられなかった。まさか名前があそこまで変わり果てることなど想像もしなかった。……言葉を失ったよ」
あの日の彼女は本当に別人のようで、とても無視することはできなかった。あの日の彼女を思い出しては、未だにナイフで胸を抉られたような衝撃に襲われる。大事な人を失う苦しみを分かっていたはずだった。それなのに同じことを繰り返し、更に名前にも同じ思いをさせてしまった。
「俺が一番守りたいと思っていた名前の笑顔を、自らの手で奪ってしまった。しかし俺はもう死んだ人間、名前の前に姿を現すことはできない。俺が生きていることが知られれば、君にも危害が加わることになるからな。それならば、せめて"沖矢昴"としてでもいい。名前の側にいて、名前の笑顔を取り戻そうと思い名前に近付いた。どうしても名前を失いたくなかったんだ。……だが、それが余計君を苦しめることになるとはな」
自分の不甲斐なさに、ただ嘲笑するしかなかった。
「ごめんなさい……」
俯きがちに一言、聞こえるか聞こえないか分からないほど小さな声で、名前は呟いた。なぜ君が謝る必要がある?
君を追い詰めたのは他ならぬ俺だ。君は何もしていない。
「君が謝る必要はないだろう」
「でも……私……」
彼女が何かを口にする前にまた腕を引き、きつく抱きしめる。あんなに苦しめて追い詰めたのにも関わらず、彼女は俺を責めるどころか「お帰り」と迎えてくれたのだ。
「名前が待っていてくれた。それだけで十分だ。……名前の正直な気持ちが聞けるのなら、"沖矢昴"も悪くない。名前が俺のことを、そこまで思っていてくれたとはな」
普段あまり気持ちを口にしない彼女に少し意地悪くそう囁くと、俺の腕の中にいる彼女の体温が少し上昇したような気がした。
「ずっと俺のことを思っていてくれてありがとう。名前が忘れないでいてくれて嬉しかった」
抱きしめる腕を緩めることなく、俺もずっと伝えられなかった思いを少しずつ吐き出す。俺の腕の中に閉じ込めた名前が、声を押し殺しながら小刻みに肩を震わせているのが分かった。
今日は最初からずっと名前を泣かせてばかりいる。きっと彼女自身も涙をコントロールすることができなくなっているのだろう。
もう一度目を見て話すために肩を軽く掴み、顔が見える位置へと引き離す。そこにいたのは随分と泣き腫らした目をした名前だった。俺のせいなのだがその顔があまりにもひどいせいで、つい苦笑を漏らした。
名前の頬を両手で包み、零れた涙を親指で拭ってから彼女と目を合わせる。名前も同じように、俺を見つめ返してくれた。
「俺はこれからも名前と共に生きたい。君を手放したくないんだ。だが俺は、外の世界では"沖矢昴"としてしか生きられない。君に負担をかけることも、寂しくさせてしまうようなこともあるだろう。それでも名前は俺と……そして"沖矢昴"と一緒にいてくれるか?」
もちろん身勝手なことを言っているのは十分承知している。しかしそれでも、そうだとしても、これから先、彼女がいない未来など考えられない。
「赤井さん。私、赤井さんのこと本当に大好きです。今でもそれは変わりません。でも、"昴さん"も私にとって大切な人なんです。わがままかもしれないけど私、"昴さん"とも一緒にいたいです……!」
どうやら名前もそれを受け入れてくれたようだ。答えを聞いて口元に笑みを浮かべると、やっと名前にも少しずつ笑顔が戻ってきた。この笑顔が見たかった。どうしても失いたくなかった。
「ああ。あいつも君のことを愛しているからな。だがあいつに会っていいのは、俺が会えないときだけだ。それ以外のときにあいつに会うのは認めない。まぁ、最初から会わせる気もないが」
「ふふっ、もちろんです」
彼女が気に病まないようにできるだけ冗談っぽく話しかける。それを冗談だと思ってくれた彼女は、くすっと笑いながら俺の胸へと飛び込んできた。百パーセント冗談という訳ではないが、名前が笑ってくれるのならいいだろう。彼女を無理矢理"恋人"という立場にした奴に言える台詞ではないが。
一度俺の胸に顔をうずめた彼女が再び顔を上げ、上目遣いで俺を見つめる。今ここにいるのは、紛れもなく俺が愛する女。一度は離れようとしたが、どうしても手放せなかった愛しい愛しい恋人。そんな名前と、引き合うように唇を重ねた。
もう二度と君を手放すつもりはない。だから覚悟しておけ。
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