夕星の待ち合わせ
「ほんとに夢……じゃないんだよね……」

赤井さんとあんなことがあってから数日が経った今でも、私はまだあの日の出来事を現実のものとして完全には受け入れられずにいた。あの赤井さんに──初めて恋心というものを抱いた相手に──「好きだ」と告げられるなんて。

信じられない。でもあの日の赤井さんの言葉、表情、そして抱きしめられたときの腕の温もり。その全てが今もまだしっかりと残っている。

彼と初めて二人で出掛けたとき、いや、初めて会ったときにこういう関係になることを、一体誰が予想できたというのだろう。少なくとも私には、全くと言っていいほど予想することができなかった。

怖い∞デリカシーがない=c…最悪だった第一印象が大きく変わり、今まで一度も抱いたことのない気持ちまで生まれている。彼を思い出すだけで顔に熱がこもり、それと同時に思い浮かぶのは赤井さんの優しい笑顔。



あの日、彼の腕から解放されたあと、遅くなってはいけないからと赤井さんはそのまま私を自宅へと送り届けてくれた。左手にハンドル、右手に私の左手を握って。

彼の大きな右手を握り返すだけで鼓動が鳴りやまず、妙にそわそわしてしまったけれど、赤井さんは時々横目にそんな私を見ては穏やかな微笑みを浮かべていた。

そして帰り際。

「これからは恋人≠ニしてよろしく頼む」

そう告げて私の手をそっと引っ張るので、瞬く間に私の身体は赤井さんの元へ。バランスを崩して彼の胸へと頭を預けた直後、赤井さんの手が私の頭を小さく撫でた。

恋人≠ニいう響きがなんだかくすぐったくて、赤井さんに触れられることに緊張してしまって身体を離そうとするけれど、赤井さんはそうはさせてくれない。おでこに柔らかいものが触れた直後、小さなリップ音が車内に響いた。

それがキスだと気付いたときには赤井さんの手はもう離されていて。慌てて身体を元の位置に戻した頃には全身の熱が顔に集中していたので、きっと真っ赤な顔をして赤井さんのことを見つめていただろう。

「あまり可愛い反応をしてくれるな。おやすみ」

もう一度私の頭に手を伸ばし、今度はポンポンと二度手を置かれたところでこれ以上は耐えられなくなり、車のドアノブに手をかけて慌てて車から降りた。

「っ、ありがとうございました。おやすみなさい」
「また連絡する」



今でも夢を見ているのではないかと思うときはあるけれど、これは夢じゃない。私の携帯には次のデートの約束をしたメッセージがしっかりと残っているのだから。

「……さん、苗字さん」
「は、はいっ!」
「大丈夫? さっきからぼーっとしているし、顔も赤いよ。風邪でも引いた?」

店長に何度か呼ばれていたようだけれど、あの日のことを思い出していたせいで上の空だった私はそのことに気が付かなかった。仕事に集中しなければいけないと分かっているのに、あの日の記憶があまりにも鮮明に焼き付いているせいで頭から離れない。

「辛いようなら早めに上がる?」
「いえ、大丈夫です。すみません」
「大丈夫ならいいけど、無理はしないようにね」
「ありがとうございます」

あぁもう。仕事に支障を来すようではいけないのに。店長や他の従業員にも迷惑をかけてしまう。少しでも気持ちを落ち着けるために、私は何度か大きく深呼吸を繰り返した。





携帯のメッセージに残る約束の日。仕事終わりに、私は職場のすぐ近くで赤井さんが来るのを待っていた。今日は赤井さんと恋人という関係になってから初めてのデート。

たった数日のことなのに会える日が待ち遠しかった。本当は休日にゆっくり会いたかったけれど、赤井さんと私の都合を合わせようとすると早くても一週間以上先になりそうだったので、こうして仕事終わりに待ち合わせることにしたのだ。

今までだって同じように待ち合わせをしていたはずなのに、正式に恋人≠ニいう関係になったというだけで、緊張は桁違い。

ただドキドキするだけじゃない。頬は自然と緩んでしまうし、浮き足立っているのか妙にそわそわしてしまう。メイクも髪も更衣室できちんと直してきた。好きな人に会う準備は万端。

「名前」

不意に聞こえた私の名前を呼ぶ声。心地よいテノールはもちろん彼のもの。

「すまない、待たせたか?」
「い、いえ、そんなことないです。私も今終わったばかりなので」
「そうか。では行こうか」

彼が差し出す手に、おそるおそる自分の手を重ねる。赤井さんはぎこちなく重ねた私の手をとると、指を絡めて繋ぎ直した。

初めて一緒に食事をしたときとも、この間の車の中とも違う繋ぎ方。手のひらだけでなく、親指から小指までの全ての指が赤井さんに触れている。いわゆる恋人繋ぎなのだから当然のことなのだけれど、私にとっては当然のことではない。

高鳴る鼓動をどうにか抑えようとしても赤井さんと手を繋いでいると思うだけで余計にドキドキするし、緊張と恥ずかしさで顔に熱が集まる。

手の繋ぎ方だけではなく歩き方までぎこちなくなってしまう私に合わせるかのように、赤井さんは長い脚を持て余して小股で歩いてくれた。

「どこに行くんですか?」
「特に決めていないが、行きたいところはあるか?」
「えっ……!?」

前にもこんなことがあったな、とぼんやりと思い出した。せめてネットでお洒落なカフェのひとつやふたつ、リサーチしておけばよかった。なんて思っても後の祭り。

「えーっと……」
「そうだな、それならドライブに付き合ってもらっても?」
「はい!」
「あっちに車を停めてきた。少し歩くぞ」

赤井さんに手を引かれて、車を停めたという駐車場に向かう。人混みの中、はぐれないようにと赤井さんの手には少し力が入った。骨ばった彼の指が私の指にしっかりと絡まっている。男の人の大きな手。ドキドキして、彼の顔をちゃんと見ることができない。

「緊張しているのか?」
「……してます」
「やけに素直だな」
「だって赤井さん、どうせ気付いてるじゃないですか……」
「君は分かりやすいからな」

喧騒の中でも、ふっと笑う彼の声が聞こえた。ああもう、心臓に悪い。

私たちを追い抜こうと隣を通りすぎる人の腕が、時折後ろから私の肩に軽くぶつかる。その度に私の身体は赤井さんに寄せることになってしまうので、自然と彼との距離が近くなっていった。

ふわりと鼻腔をくすぐる、赤井さんの香水の香りと煙草の匂い。混ざり合った匂いは独特の香りで、これが赤井さんの匂いなんだと既に私は認識している。近づけば近づくほど匂いは強くなって、赤井さんの隣にいるんだと実感してはまた鼓動が速くなるのをひしひしと感じていた。

「これくらいでこうも緊張されても困るんだがな」
「これくらいって……」

赤井さんにとってはこれくらい≠ゥもしれないけれど、私にとってはこれくらい≠ナ済ませられることではない。こうして彼氏と手を繋いで歩いていること自体、今まででは考えられなかったのだから。

今日日中学生、あるいは小学生でも恋人がいるというのに、奥手で男性が苦手な私にとっては別世界のことなんじゃないかとずっと思っていた。

でも、人を好きになるのに年齢なんか関係なくて、好きな人と一緒にいたいと思うことは当然のことで、それが早いか遅いかだけのことだということに最近になってようやく気がついた。今までそう思える人に出会わなかったから、私には無縁だと思い込んでいただけ。そう気づかせてくれたのは、他でもない赤井さんだ。

「これくらい、まだまだ序の口だぞ」

私だけに聞こえるような小さい声。息がかかるくらいの距離で囁かれれば、ボッ、という効果音がぴったりなくらい一気に顔がほてっていく。

「赤井さんのいじわる……」
「そいつは心外だな。意地悪をしているつもりはないが?」
「もう……!」

赤井さんはまたふっと笑った。少しずつ分かってきた。赤井さんは楽しいときにはこうやって、小さく息を漏らして笑うらしい。私と一緒にいることを、楽しいって思ってくれてるのだ。

あまり表情が変わらないので彼が何を思っているのかはほとんど読み取ることはできないけれど、こうして少しずつでも赤井さんのことを知っていけたらいいなと心から思う。

「もうすぐだ」

いつの間にか人混みを抜けていた私たちは、駐車場のすぐ側まで来ていたらしい。人混みを抜けても赤井さんの手は繋がれたまま。

その手は車に乗る直前まで離されることはなかった。



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