一番星の正体
赤井さんの車に乗るのも何度目だろう。助手席に座ることに多少慣れたとは言っても、恋人≠フ車に乗るのは初めてだ。いや、二回目。正式に恋人になった日、私はこの車に乗っていた。
そうだ、ここで告白されたんだ。ここに座っていて、好きだと言われて、抱きしめられて……思い出しただけでまた顔に熱が集まる。この車に乗るたび思い出していたら、心臓がいくつあっても足りない。いつかは慣れると思うけれど、少なくとも今はまだあの日の記憶が鮮明に蘇る。
「顔が赤いがどうした?」
「……なんにもです」
赤井さんは車のエンジンをかけながら、また小さく息を漏らして笑っていた。今日の赤井さんはなんだかよく笑っている気がする。この表情──彼のこの笑顔を初めて見たとき、私は恋に落ちた。一瞬だった。こんなにも簡単に誰かを好きになるなんて思いもしなかった。それがまさか一目惚れだなんて。……初めて会ったときはなんとも思わなかったので一目惚れと言うのかは分からないけれど。
怖いと思っていたのが嘘みたい。そもそも、最初に怖いと思ったのが間違いだったのかもしれない。背が高くて、確かにちょっと目つきは悪いかもしれないけれど、どこからどう見ても赤井さんはイケメンと称されるにふさわしい。
突然声をかけられたので怖いと思ったのかとも考えたけれど、話しかけられた内容は初対面の私を気遣うものだった。赤井さんは初対面のときから紳士だった。それなのにあんな態度を取ってしまって、今でも申し訳ないと思う。やり直せるのならあの日からやり直したい。赤井さんと初めて出会った、あの雨の日から。
「名前が何を考えているか当ててやろうか?」
私がひとりで百面相をしている間に車は動き出していて、そんな私を横目に見ながら赤井さんは楽しそうに問いかける。何を考えているか──全部、ぜんぶ赤井さんのこと。考えていることなんて一言も言葉にしていないのに、赤井さんは表情だけで読み取ったというのだろうか。
「当てなくていいです! ……また思い出しちゃうじゃないですか」
「ホォー? それはこの間のことか?」
「ッ……!?」
「図星か。期待以上の反応だな」
「……いじわる」
あぁ、まんまと赤井さんのペースにはめられた。本当に考えていることを読んだのかどうかは分からないけれど、少なくとも今のでこの間のことを回顧しているということには気付かれただろう。
なかなか顔の熱が引かない。自分の頬に両手を当てると熱が伝わってきて、鏡を見なくとも頬が紅潮しているのが分かる。
赤井さんの車に乗ると緊張する理由はもう一つ。赤井さんの匂いに包まれるから。車内には煙草の匂いと香水の香りが染み付いていて、まるで彼に抱きしめられているかのような錯覚にさえ陥る。この間のように。
いつの間にか車は街中を抜け、この前と同じ木々が立ち並ぶ一本道を走っていた。夕方を過ぎ、外も少しずつ暗くなってきている。赤井さんにドキドキさせられっぱなしで、どこを走行しているのかなんて気に留める余裕もなかったので全然気が付かなかった。ここは赤井さんのドライブコースなのだろうか。
「ここ、よく通るんですか?」
「そうだな。一人で考え事をしたいときや、少し車を走らせたいときに来ることがある。誰かを連れてきたのは名前が初めてだ」
「そう、なんですね」
私が初めて。それを聞いただけで赤井さんの特別になれたような気がして、心がじわりと満たされていく。
ようやく少し気持ちが落ち着いてきたので運転する赤井さんを横目でちらりと覗いてみれば、横顔からでも端正な顔立ちをしているのが分かる。鼻筋がすっと通っていて、あまりの格好良さにため息が出そう。
「ん?」
「いえ、何も……」
本当にこの人が私の恋人なんだ。初めてできた恋人。未だに信じられない気持ちはあるけれど夢じゃない。ちゃんと現実。
「あまり見つめられると……いや、何でもない」
彼が何を言おうとしたのか皆目検討がつかず、頭にはてなマークを浮かべながら小首を傾げる。
「気にするな」
赤井さんはまた口角を少し上げて微笑んだ。なんと言おうとしたのかは分からないけれど、深く考えるほどの余裕もないので赤井さんが言うとおり気にしないことにした。
すると突然、車内に携帯の着信音が鳴り響いた。私の携帯の音ではない。ということは、赤井さんの携帯。運転中なので赤井さんは電話に出ないけれど、いつまでたっても一向に着信音がやむことはない。
「少し電話をさせてくれ」
「分かりました」
赤井さんはゆっくりと車を路肩につけ、その場に停車させた。エンジンを切る頃には着信音は途切れてしまったようで、赤井さんはポケットから取り出した携帯の画面で発信者の確認をしている。一つため息をついてから、私に「すまない」と断りを入れ、車を降りて外で電話をかけ直していた。
仕事の電話だろうか。聞き耳を立てるつもりはないけれど、辺りがしんと静まり返っているせいで通話中の赤井さんの声が自然と耳に入る。とはいっても、相手が一方的に話しているようで聴こえてくるのは赤井さんの相槌だけ。
「了解。準備が出来次第すぐそちらに向かう」
通話の最後に聴こえてきた、赤井さんの言葉だった。きっと呼び出されたんだ。察しが悪い私でもさすがに分かる。通話を終えた赤井さんは携帯をポケットへと戻し、運転席に戻ってきた。
「すまない、急な仕事が入った。今から名前を家まで送る」
「分かりました。お仕事大変なんですね」
ちょっと残念な気持ちはあるけれど、仕事なら仕方がない。あれ……? そういえば赤井さんの仕事ってなんだっけ。
「赤井さんって、お仕事は何をされてるんでしたっけ?」
ふと気になったので、思ったことをそのまま口に出した。今までだって全く気にならなかったわけではないけれど、そういう会話にならなかったので私から聞くこともなかったし、聞かれなければ赤井さんも答えないのは当然のこと。
私って赤井さんのこと、まだ全然知らないんだ。もっと彼のことを知りたい。赤井さんの返事を待ちながらそんなことを考えていたら、彼からの返事を聞いた瞬間、私の思考は止まることになる。
「FBIだ」
「…………え?」
「アメリカ合衆国連邦捜査局。ビュロウとも言う」
「それは分かりますけど……いえ、詳しくないので名称とか分かんないですけど……でもあの、そうじゃなくて……」
私が聞きたいのはFBIがどういうものなのかではなくて、なぜそんな人が日本に、いや私の隣にいるのかということ。なのに当の本人は「何を驚く必要がある?」とでも言いたげな涼しい顔をしている。
「ん? どうした?」
「え……? ほんとに……?」
「あぁ」
恋人の職業を聞いて、ここまで驚愕することがあるのだろうか。ドラマでしか聞いたことのないような職業。まさか実在するなんて。しかも目の前に。開いた口が塞がらないとはまさにこのことだ。
「またこうして急に呼び出されることがあるかもしれない。そのときはすまないが……」
「全然気にしないでください! 大事なお仕事ですから」
「ありがとう」
私の返事を聞いて、赤井さんはまた穏やかに微笑んでいた。私はというと未だに赤井さんがFBIだという事実を受け止めきれず、頭の半分も働いていない。そんな私を気にも留めることなく、赤井さんは私の家に向かって車を走らせた。
「次は名前が行きたいところに行くから、行き先を考えておいてくれ」
家に着く直前、赤井さんに言われたことだった。付き合っているのだから次のデートの約束をするのは当然と言えば当然なのだけれど、それがごく自然に赤井さんの口から飛び出してきたことが嬉しくて、きゅんと胸の奥が跳ね上がる。
「はい、考えておきます」
そう返すのが精一杯だった。そしてちょうど車は私の家の前に停車した。今日はこれでお別れ。まだバイバイもしていないのに、もう次が待ち遠しく思ってしまう。そんな私に赤井さんはそっと手を差し伸べ、私の頭を自分の方へと引き寄せた。今日も赤井さんに抱き締められている。車の中にふわりと漂う匂いが強くなり、それだけで麻薬でも吸ってしまったかのように頭がくらくらする。
ぎゅっと強く抱き締められたあとに腕は緩められ、彼の手が今度は私の頬を包み込んだ。優しく触れているとはいっても完全に顔を固定されているので、赤井さんから目を逸らすことができない。こんな至近距離で赤井さんの顔を見たらまた心臓はうるさいくらい大きな音を立てるし、直視されていると思うと顔にばかり熱が集まる。
「今日はすまなかった。また連絡する」
言葉と同時に彼の顔が近づいてくる。キスされるのかも、と思わずにはいられなかった。まだ心の準備はできていないし心臓が口から飛び出そうなほど緊張しているけれど、赤井さんの顔が近づくにつれてそっと目を閉じた。
彼の唇が触れたのは、私の頬だった。
「ここは次回にとっておく。おやすみ」
唇を親指でスッとなぞられる。その仕草、言葉の意味、彼の表情。全てに魅了された私は早く車を降りなければならないのに、体が思うように動かなかった。
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