真っ暗な星空の下で
「楽しめたか?」
「はい……」
「よかった」

言えない。赤井さんとずっと手を繋いでいたから、緊張と嬉しさで話の半分も耳に入らなかったなんて。記憶は断片的。今日の星空の解説、ギリシャ神話に絡めた星座の説明、あとは銀河系の話……だったような気がする。自らここに来たいと志願したのにこの有様。でも赤井さんの表情からは楽しんでいたことが伝わってきたのでよしとしよう。


その後も少し展示を見ながらゆっくりしていると時刻はあっという間に午後五時。夕方だけれど夏至の頃なのでまだ空は明るい。長く伸びた二つの影。並んだ影の間隔はここに来たときよりも狭くなっていた。

「名前が星を好きなのがよく分かったよ」
「え? そうですか?」
「あぁ。特にポラリスの展示を眺めているときはそこしか見えてなかっただろう。俺にもあれほどの熱視線を向けてほしいものだ」

妬けるな、なんて微かに眉を下げて言われてしまったらまた私の心臓は大忙し。まるで私が赤井さんのことを見つめていないような物言いだけれど、決してそんなことはない。見惚れていると気付かれないようにしているだけだ。赤井さんと目が合うと、心臓を射抜かれたかのように動けなくなってしまうから。いつも赤井さんに気付かれないように盗み見るのが精一杯。

……なんてことは口が裂けても言えるはずなく、何も返答ができなかった。

「冗談だ。名前が俺にも熱い視線を送っていることは知っている」
「えっ……!?」

赤井さんの言葉に驚きを隠しきれずに絶句した。いつも気付かれないようにと運転中などのタイミングを見計らって盗み見ていたのに、まさか赤井さんがそのことに気が付いていたなんて。

「まさか俺が知らないとでも思っていたのか? 名前の熱い視線で火傷するかと思ったよ」
「火傷って……」

そんなに熱のこもった視線を送っていたのだろうか。たしかによく見惚れていたような気はするけれど、正直そこまで見つめていたという自覚はない。

「……迷惑でしたか?」
「いいや、光栄だ」

そう言って優しい眼差しを向けられればまた鼓動が速くなり、赤井さんから目を逸らせなかった。





赤井さんの車で自宅に送り届けてもらう頃には、辺りは暗くなり始めていた。

「夏の大三角、見えますかね?」

今日のプラネタリウムの解説を聞いた中で、ぼんやりした記憶の中でも比較的はっきりと覚えている星だった。学生の頃に学んだことなので耳馴染みがあったのも理由の一つだけれど、理由はもう一つある。

デネブ、ベガ、アルタイルという三つの星で作られる大きな三角形。このうちの二つ、ベガとアルタイルが織姫と彦星と言われているから。年に一度、七夕の夜にだけ逢うことを許された二人。有名な話なのでよく知っているけれど、赤井さんに恋をした今その話を聞くと切なくも儚くもあり、でも琴線に触れるもので印象深かったのだ。

もし私と赤井さんが織姫と彦星だったら。こうして言葉を交わすことも、顔を合わせることも一年に一度だけ。日に日に赤井さんのことを想う気持ちは膨らみ、会いたい気持ちが募るというのに、一年に一度しか会えないなんて言われたら耐えられないかもしれない。

「都会の空は明るいからどうだろうな。それにまだ六月。ビルの影に隠れているかもしれない。深夜ともなれば別だが?」
「そっか……真夏までおあずけかぁ……」

そんな話をしている間にも車は進み、気付けば自宅へと到着していた。あっという間の一日だった。赤井さんと一緒にいると、あっという間に時間が過ぎていく。もう少し一緒にいたい、なんだか今日はいつもより離れがたい。私だけが勝手に思っていることかもしれないけれど、今日一日で赤井さんとの心の距離が縮まったような気がした。

「少し外を歩くか?」

赤井さんも同じ気持ちでいてくれたのだろうか。だとしたらそれは願ってもないことだ。同意の返事をして、私たちは車を降りた。

歩き始めて最初にしたこと。それは、空を見上げることだった。

「ほんとだ、星全然見えない……」

都会の空は明るいから、と赤井さんに言われたけれどそのとおりだった。一際煌めく星が一つ二つ見える程度。今の季節、今の時間に低い位置で輝いているであろう夏の大三角は欠片も見えない。肩を落とす私に、赤井さんは優しく声をかけてくれた。

「いつか本物の星空、見に行こうか。──一緒に」
「はい!」

即答だった。星空を見に行くことももちろん楽しみだけれど、それ以上に赤井さんと一緒に見に行くということの方が何倍も楽しみだ。おそらく赤井さんの仕事の都合もあるので具体的な日にちをすぐに決めることはできないだろうけど、未来の約束を自然にできるようになっただけで幸せを感じる。


先程からどこに行くわけでもなく道を歩いているのだけれど、今回は赤井さんから手を差し伸べられなかった。今日一日、ほぼ手を繋いでいたので赤井さんの手のぬくもりが恋しい。手を繋ぎたい。けれど自ら赤井さんの手を取る勇気もない。少し待ってみても赤井さんの手が私の手に触れることはなかった。

寂しい、恋しい。でも手を握る勇気がなかなか出ない。ひたすら同じことが頭の中をぐるぐる巡っている。悩みに悩んだ結果、とうとう寂しさに耐えきれなくなった私は赤井さんの小指に自らの人差し指をそっと絡めた。赤井さんの顔は見れなかった。

「それでいいのか?」

ふっと笑う声と同時に、柔らかな声がした。いいのか、と聞かれたらよくないけれど、今の私にはこれが精一杯。何も返答できずにそのままでいると、赤井さんが私の手を取り、手のひらを合わせて指を絡めた。

「遠慮する必要はない。名前のしたいようにしていいんだ。俺たちは恋人だろう?」
「……はい」

心の底まで見透かされたような気がして、嬉しさ半分、恥ずかしさ半分。でもやっぱり手を繋げたことへの嬉しさが上回り、感謝の意味も込めてぎゅっと握り返した。

いつの間にか家の周りを一周していたようで、気付けば再び家の前。

「名前」

立ち止まった赤井さんにつられて私も足を止めると、頭上から聞こえてきたのは真剣な声色。声がする方を見上げてみれば、今日の空のように曇りのない瞳が真っ直ぐに私を見つめていた。真剣な眼差しにドキドキして、心臓が早鐘を打つ。

「今日はありがとう。楽しかった。改めて実感したよ。──名前のことが好きだと」

一言で一気に鼓動が跳ね上がった。胸の奥がきゅうと締め付けられ、痛いほど苦しい。でもその痛みが心地よくて、ずっとこの痛みに浸っていたいとも思う。私も何か言わなければいけないのだけれど、上手く言葉が出てこない。

「わた、しも……」

それだけで精一杯だった。

「ん? どうした? 続きはないのか?」

なのに赤井さんはその一言では足りないとでも言うような言葉を告げて、じっと私を見つめている。私もこんなふうに、赤井さんに熱視線を向けていたのだろうか。胸の苦しさは継続していて、今にも心臓が飛び出そうなほど。ドキドキのせいなのか、言葉を口にすることへの緊張のせいなのか、唇が震えて一語ずつ話すのが精一杯だ。

「わたし、も……っ、す……き、です……」

赤井さんと視線を交わしたまま、自分の気持ちを伝えるための言葉をたどたどしく紡ぐ。ようやく全てを言い終わった頃には自分でも顔が真っ赤になっているのが分かるほどに熱を持っていて、今すぐにでも顔を覆って隠してしまいたいと思うほど。赤井さんはそんな私を見て嬉しそうな微笑みを浮かべていた。

後頭部にそっと添えられた赤井さんの大きな手。少しずつ近づいてくる赤井さんの端正な顔。

──赤井さんの唇が、私の唇にゆっくりと触れた。

少し温かくて、柔らかい感触が唇に伝わってくる。全身に甘やかな毒が回って麻痺したみたいに体はぴくりとも動かない。

数秒ほど重なった唇はゆっくりと離れていったのだけれど、私の唇にはまだ感触は残ったまま。息が止まるかと思った。いや、実際に止まっていた。ほんの数秒のことなのにそれはそれはとても長い時間のように感じて、このまま窒息してしまうのかと思った。

「やっと言ってくれたな」

私を見つめる赤井さんの目がすっと細められている。その笑顔はいつも彼が見せてくれる柔らかな表情に嬉しさが混じっているようで、見ているだけでまた心臓が大きく跳ね上がった。

「名前の口からその言葉を聞きたかったんだ。おやすみ。またな」

私の頭に手を乗せて撫でてから、赤井さんは運転席へと乗り込んだ。お腹に響くようなエンジン音が轟く。走り去る車の後ろを見ながら、赤井さんとキスした唇を指でなぞった。

赤井さんと交わした初めてのキス。私にとってのファーストキス。私の頬は夜風に当てられても火照ったままだ。



PREV / NEXT

BACK TOP