星の住処
ファーストキスはレモンの味。最初にそう言い出したのはどこの誰だろう。私のファーストキスは何の味もしなかった。そんなことを考えている余裕がなかった、と言う方が正しいかもしれない。

ほんの数秒。赤井さんと一緒に過ごした一日の内のほんの一瞬。それなのにキスした瞬間のことは数日経った今でもはっきりと覚えていて、鮮明に思い出せる。もちろん、赤井さんの唇の感触も。

あの日以降、仕事をしているときでも暇な時間ができると思い出すのは赤井さんと交わしたキスのこと。たった一回、それもほんの一瞬のことなのに幸せを感じたあの瞬間が何度も頭の中で繰り返されている。次はいつ会えるのだろう。……二回目のキスはいつなのだろう。仕事中だというのに、ついそんな邪なことばかり考えてしまう。

「よかった、彼氏と仲直りできたみたいだね」
「あ、佐藤さん……」

いつものようにコーヒーを買いに来た佐藤さんの第一声。続けて「いつものね」と口にすると、カウンターに肘をついて何やら楽しそうな笑みを浮かべた。

……そうだった。この間赤井さんと道端で偶然会ったあの日、佐藤さんはあの場所に居合わせていた。そして赤井さんと私が恋人同士で、しかも喧嘩中だと勘違いしたまま去っていったのだ。

あのときは違う≠ニ否定しようとしたけれど、佐藤さんの勘違いとあの一言がきっかけとなって本当の恋人同士になれたのだ。今更否定する必要もないし、むしろ感謝をしなければいけないのかもしれない。

「顔に書いてあるよ。幸せです、って」
「えっ、うそ!?」

思わず自分の頬を両手で包み込む。気を抜いたときには頬が緩んでいるかもという自覚はあったけれど、まさか他人から見ても分かるなんて。

「ほんとほんと。苗字さん、なんか最近ますます可愛くなったよね。彼氏のおかげかな?」
「っ……! も、もう! からかわないでください!」
「照れちゃって可愛いなぁ。……おっと、噂をすれば彼氏のお出ましだ。じゃあまたね」

佐藤さんはコーヒーを手に取るとすぐに行ってしまった。そして入れ替わるように私の正面へとやってきたのは、私の頬が緩む原因を作った張本人。なんだか前にもこんなふうに二人が入れ違いになることがあったような気がする。

「あかい、さん……」

口づけを交わしたあの日から何度か連絡は取り合っていたけれど、こうして顔を合わせるのは初めてだ。なんだか変に意識してしまって赤井さんの顔を直視することができない。たった一度のキスで顔を見ることができないほど意識している、なんて赤井さんが知ったらまた笑うだろうか。

「今のはこの間の男か。随分と仲が良さそうじゃないか」

てっきりまたからかわれるかと思ったのだけれど、私の予想に反して赤井さんの声は不機嫌そうだ。意識していることも忘れて慌てて視線を赤井さんに移すと、どう見ても笑顔はなくてむしろむっとしているようにも見える。

「あ、えっと……常連さんってだけで仲良いわけでは……あの、赤井さん……? なんか、怒ってます……?」
「……いや。なんでもない」

なんでもないようには見えないけれど、あまり深く尋ねるのもどうかと思うのでそれ以上は何も聞かなかった。赤井さんの表情はいつの間にか、いつもの穏やかなものに戻っていた。

「今日、迎えに来ても構わないか?」
「いいんですか……?」
「あぁ。仕事の都合で少し遅れるかもしれないが、待っていてくれるか?」
「はい、待ってます!」

仕事が終わったら赤井さんに会える。それが嬉しくてはにかむと、赤井さんも同じように微笑みかけてくれた。たった一つの約束だけでこのあとの仕事も頑張ろうと思えるなんて、我ながら本当に単純だ。

赤井さんはコーヒーを片手に持ち、「またあとで」と言い残して店を去っていった。





赤井さんに会えるのを楽しみにしていたら、あっという間に退勤時間を迎えた。取れかけたメイクを更衣室で直してからお店の前で赤井さんが来るのを待っていると、目の前の道路の遠くの方からこちらに向かって走ってくる車。その中の一台が赤色で、こちらに近づいてくるにつれて速度が落ちていく。見慣れた赤色の外車が路肩に寄って、目の前で停車した。

私が車に少し近寄るのと同時に運転席のドアが開き、想い人が姿を現した。同時に周囲に飛び交うのは通行人の女性たちの黄色い声。「イケメン」とか「好み」とかそういう類いの言葉も紛れて聞こえてくる。目立つのは車だけではなく、運転者本人もだったようだ。

赤井さんのことを好きになってからは恋人の贔屓目もあってどんなときでもかっこいいと思ってしまうのだけれど、どうやら客観的に見てもそうらしい。女性たちの声にモヤモヤとした黒い感情が胸の奥で渦巻く。

それもそのはず。黄色い声を上げた女性たちは可愛かったり美人だったりと、おそらく赤井さんの横に並んでも引けを取らない人ばかり。私なんかとは雲泥の差だ。

この人は私の彼氏なの。かっこいいでしょう≠ネんて自信満々になるのは到底無理なことで、むしろこの状態で私が彼女だと名乗り出ることすらできない。なのに私の気持ちに全く気付いていない赤井さんは、車を降りるとまっすぐこちらにやってきた。

「すまない、待たせたな」
「いえ……」
「行こうか」

エスコートをするように背中に回した腕が、ぎゅっと私の肩を抱き寄せる。途端に私たちの距離は一気に縮まり、赤井さんの体にぴたりとくっついた。背後からはまたしても黄色い声。今度はその中に「あんな子が?」「不釣り合いよ」というような私を蔑む言葉も紛れていた。そんなの、言われなくても自分が一番分かっている。

今日の赤井さんはいつもの香水の匂いに煙草の匂いも混じっていた。ここに来るまでの間に吸ってきたのだろう。私を包むように大人の香りが漂っている。いつも通り赤井さんが助手席のドアを開けてくれたので、お礼を言いながら車に乗り込んだ。赤井さんもすぐ運転席に乗り込むと、ゆっくりと車を発進させた。

「どうした? あまり元気がないな」
「いえ、なんでもないです。ちょっと仕事が大変だっただけで……」
「そうか。疲れているのに悪かったな」
「そんなこと……! っ、私も、会えて嬉しいので……」

左手でハンドルを握ったまま赤井さんの右手が私の頭を軽く撫でた。こうして頭を撫でられることが好きだということに気付いたのはつい最近。ドキドキもするけれど心が満たされ、幸せな気持ちに包まれるのだ。ちらりと赤井さんに視線を送ると、いつも見せてくれる穏やかな微笑みを浮かべていた。

さっき胸の奥に生まれた黒い感情。あれはきっと私の心の奥深くにある醜い独占欲や嫉妬心と、私自身に対する自信のなさ。赤井さんに対する想いは日に日に膨らみ、同時に誰にも取られたくないという子どもじみた感情も生まれている。それが先ほど、私よりも明らかにきらびやかで女性らしい人たちが赤井さんに黄色い声を送ったことで露呈してしまった。

でもそんな気持ちも赤井さんに触れられ、そして笑顔を見ただけで、また一気に心の奥底の誰にも見えない部分まで戻っていく。恋って不思議だ。相手の行動や言動一つで嬉しくも悲しくもなる。なんだか常にジェットコースターに乗っているみたい。

赤井さんに気付かれる前に醜い感情を隠すことができてよかった。こんな感情を見られたら、嫌われてしまうかもしれないから。

「あの、そういえば赤井さんってどこに住んでるんですか?」

話題を変えたくて、ふと気になったことを問いかける。やっぱり私はまだまだ赤井さんについて知らないことばかり。

「ん? 気になるのか?」
「あ、変な意味じゃないですよ!? その……いつも迎えに来てくださいますけど、お家から遠くないのかなって思って……」
「あぁ、分かっている。そうだな、長く見積もってもここから十分程のところだ」
「結構近くなんですね」

赤井さんはどこか楽しげに微笑んでいた。自宅が近いからうちのお店にもよく来てくれていたのか。通勤途中にあるコーヒーショップだから。

「……来てみるか?」
「えっ!?」

突然の提案に思わず出た声は若干裏返っていた。まさかこんな急に自宅に招かれるなんて思っていなかったので、心の準備もできていない。いくら経験がないからといっても、恋人の家に行くということが何≠意味するのか。それくらいは分かっているつもり。明らかに緊張で体が硬直している私に、赤井さんはふっと微笑んだ。同時に信号が赤に変わった。

「いや、無理にとは言わんよ。名前が嫌がるようなことは絶対にしないと約束はするが、男の一人暮らしの部屋だ。警戒心を抱くのも無理はない。名前といられるのならどこでも構わんしな」

緊張はするけれど、赤井さんがどんなところに住んでいるのか。どんな暮らしをしているのか。少なからず興味はあったし、私ももっと赤井さんのことを知りたい。それに私たちは恋人なのだから、いつかはそういう≠アとをする日も来るだろう。意を決して、私はゆっくりと口を開いた。

「……赤井さんが、迷惑じゃないなら……お邪魔してもいいですか……?」
「俺から誘ったのに迷惑なわけがないだろう。名前ならいつでも歓迎するよ」

私の頭にぽんと赤井さんの大きな手が乗せられたところで信号は青に変わり、再び車が走り出した。



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