星屑のルージュ
どうやら赤井さんが住んでいるのは超高層マンションのようで、車は地下の駐車場に向かっていた。いつもより響くエンジン音が私の緊張を煽っていく。エンジン音に掻き消されているけれど私の心臓もバクバクと大きな音を立てていて、車が停まったら鼓動が車内に響いてしまいそうなほどだ。

赤井さんがエンジンを切ると途端に車内が静まり返ったので、どれほど鼓動が高鳴っているのかよく分かる。地下なので辺りは薄暗く、それもまた私を更に緊張させる要因となっていた。

「大丈夫か?」
「え……?」

エンジンを切った直後に、赤井さんが私の顔を覗き込んで問いかけた。

「随分と顔が強張っているように見える。やはり今日はやめておこうか。名前に不快な思いをさせたくはないんだ」

いつもこうして私を気遣い、一番に考えてくれる。たしかに緊張はしているけれど、いやだという感情は一切芽生えていない。それどころか、赤井さんがどんな部屋で過ごしているのかとか、何が好きなのかとか些細なことでもいいから、もっと赤井さんのことを知りたいと思っている自分がいる。

「不快だなんて思ってないです。ちょっと緊張してるだけで……その、男の人の家に行くのも初めてだから……」
「そうか」

赤井さんの表情が和らぎ、目元、口元のどちらにも笑みが浮かんでいた。私が嫌がっていないことが分かって安心したからなのか、異性の家に行くのが初めてだと伝えたからなのか。どちらに対しての反応なのかは分からないけれど、いつもより嬉しそうにしている赤井さんを見て私も少しだけ緊張がほぐれた。

「無理をする必要はないが……どうする? 来るか?」
「……はい、行きます」

車から降りると、赤井さんは先ほど迎えに来てくれたときと同じように私の肩に腕を回した。そっと抱き寄せられると体が赤井さんに触れるので、また心臓の音が大きくなっていく。赤井さんと触れ合うたびにドキドキしていたら心臓がいくつあっても足りないのに、速くなる鼓動が落ち着く気配はない。

案内されるがまま足を動かし、エレベーターに乗り込んだ。小さな四角い箱が私たちだけをぐんぐん上へと運んでいく。車内とは違うふたりきりの空間に再び鼓動が高鳴る。赤井さんの手にも少しだけ力が入っていた。

「ここだ」

エレベーターを降りて少し歩いた先にあるドアの前で、赤井さんが立ち止まった。

──ここが、赤井さんの部屋。

とうとう来てしまった。少しでも緊張をほぐそうと深呼吸をしている間に赤井さんは鍵とドアを開け、私が一歩を踏み出すのを待っていた。

「お邪魔、します……」

案内されたリビングは、必要最低限の家具と家電しか置いていないようなシンプルな部屋。色もモノトーンで統一されており、なんだか赤井さんらしさが溢れている。ここで赤井さんが暮らしているんだ。もしかしたら私と電話をしているときやメッセージを送り合っているときも、このソファーに座っているのかもしれない。赤井さんの存在を部屋中で感じるだけで顔に熱が集まり、心拍数も上がっていく。

「そんなに緊張しなくてもいい。……いや、無理な話だな。適当に座っていてくれ。コーヒーでいいかな?」
「え、あ、はい……ありがとうございます」

適当に、と言われてもどこに座ればいいのかなんて分からない。だからと言って、座っていてくれと言われた手前、このまま立っているわけにもいかない。悩みに悩んだ結果、今いる場所にそのまま腰を下ろすことにした。
センターテーブルの下に敷いてあるラグの上。さすがにいきなりソファーに腰掛ける勇気はなかった。それにここなら、カウンター越しに赤井さんの姿も見えるから。

カップにコーヒーを注ぎ終わった赤井さんは、二つのカップをこちらに運んできてくれた。そしてきっといつも座っているであろうソファーに腰を下ろした。

「そこでは体が冷えるだろう。こちらにおいで」

いつもの柔らかい笑顔を浮かべながら、赤井さんは自分の隣をトントンと叩いている。私は小さく頷いて、すぐに赤井さんの隣へと移動した。

ぴたりと体を寄せる勇気はなくて、私たちの間には運転席と助手席ほどの距離がある。それでもここが赤井さんの家だというだけで、この距離でさえもいつもより近く感じて鼓動が落ち着かない。

赤井さんがコーヒーを口に含んだのを見て、私もゆっくりとカップに口をつけた。温かいコーヒーが緊張した私の心と体をほぐしてくれているような気がした。

それでもいつもより緊張しているのは間違いなくて、ついさっき──車の中では話せていたのに途端に言葉が出なくなる。コーヒーで喉を潤しても未だに喉の奥がはりついているようだ。

先にこの沈黙を破ったのは赤井さんだった。

「口紅変えたんだな」

言葉と同時に視線を感じたのでゆっくりと私も赤井さんに視線を移すと、少し下がった目元と緩やかに弧を描いた口元がすぐに目に入った。

赤井さんの視線は私の唇に注がれていて、なんとも言えない恥ずかしさに襲われる。とくん、とくんと心音がうるさい。

「そ、そうなんです。昨日仕事帰りに見つけて……可愛かったから、つい……」

思わずキスしたくなる唇を≠ネんて謳い文句を真に受けて、勢いで買ってしまった口紅。薄付きのピンクにツヤがプラスされていて、どちらかというとグロスを重ねたような質感だ。仕事が終わってから塗り直したので、私の唇にはまだしっかりと口紅が残っているだろう。

赤井さんと初めてのキスをしてから、自分でも驚くほどに意識していた。恥ずかしさがありながらも幸せを感じて、もし赤井さんが二回目のキスをしてくれるのなら、と僅かながらに期待もしている。

「変ですか……?」
「いや、可愛い。その色もよく似合っている」

じっと見つめられれば体温は自分でも驚くほどにぐんぐんと上昇していく。

「食べてしまいたいくらいだ」

恥ずかしくて聞いていられないような台詞も赤井さんが口にすると自然な感じがして、でも私の頭は沸騰してしまいそうなほど熱を持っている。そんな私に構うことなく赤井さんはそっと私の頬に手を添え、親指でゆっくりと唇の縁をなぞった。

くすぐったいような変な感覚に襲われて背筋にピリピリと電流が走る。至近距離で見つめられているのにもかかわらず視線を交わすことができなくて、私は小さく俯きながら思わずきゅっと目を瞑った。

頬に添えられた赤井さんの手によって、くいっと私の顔の角度が上向きに変えられる。驚いて目を開くとそこには真剣な表情をした赤井さんがいた。

──あ、キスされる……。

ゆっくりと彼の端正な顔が近づいてくるので、私は流れに身を任せて今度は静かに瞼を落とした。

柔らかな唇が、そっと私の唇に触れる。赤井さんとの二度目のキス。触れ合った唇はすぐに離れてしまい、一度目よりもその時間は短く感じた。けれど唇が離れた直後にまた赤井さんの唇が重なる。息つく隙も与えられないくらい、赤井さんは何度も何度も、啄むように私に口づけた。

一度目のキスはとにかくドキドキして、覚えていたのは唇が触れ合った柔らかな感触だけ。けれど二度目のキスは違う。熱くて、甘くて、でもコーヒーのせいかちょっとほろ苦かった。世間一般で言う大人のキスにはきっと程遠い。それでも今までキスすらしたことのなかった私にとっては、これだけでも充分すぎるくらい大人のキスだ。

何度も私の唇を啄んだあと、赤井さんは私の下唇をぺろりと舐め、そして離れる直前に唇を食んだ。

「っ……!?」

ボッという効果音がぴったりなくらい、今の私の顔は一気に紅潮しただろう。鏡を見たわけではないけれど、自分の顔が一瞬で熱を持ったのが分かった。

「甘いな」

赤井さんは自分の唇を親指で軽くなぞり、ぼそりと一言漏らした。私はというと恥ずかしさに耐えられず、思わず両手で自身の顔を覆い隠すことしかできなかった。

どうやらあの口紅の謳い文句は間違っていなかったらしい。

思わずキスしたくなる唇を℃рノ与えてくれたらしく、数え切れないほどのキスの雨が降り注いだ。



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