中子星の心
何度も何度も口付けを交わしたため、私の顔からは熱が全くと言っていいほど引かない。対照的に赤井さんは嬉しそうで、でもどこか余裕そうにも見える。

経験のない私はたったこれだけのキスでもいっぱいいっぱいなのだけれど、きっと赤井さんにとってはこれくらいのことは恋人同士のスキンシップとして当然なのだろう。

この歳まで経験がなかったために恋人と何をするにも初めてで、いちいちドキドキする私。でもきっと赤井さんは違う。過去には恋人だっていただろう。さっきまでしていたキスなんか挨拶代わりかもしれないし、もっと大人のキスも、あるいはそれ以上の経験もあるに違いない。

赤井さんの仕事がFBIだと聞いてから、FBIという組織についても調べた。連邦捜査局――当然本拠地はアメリカ。赤井さんもアメリカにいたのだろう。行ったことはないけれど、漫画やテレビで見る欧米の女性は情熱的で積極的。赤井さんの恋人もそういう人だったとしたら、私とは正反対だ。

赤井さんにはどれくらいの経験があるのだろう。付き合った女性の数は? 相手はどんな人? ――大人の関係になったことは?

いろいろと気になることはあるけれど聞く勇気はないし、聞いたところでどうやっても過去は変えられない。それどころかもし相手がどんな人か知ってしまったら、きっと嫉妬と劣等感で落ち込むだけだ。

赤井さんに何人もの恋人がいて関係を持っていたとしても仕方がないことだけれど、想像するだけでチクリと心が痛む。いつの間にか、過去の相手にも嫉妬してしまうほど赤井さんのことを好きになっていたみたい。

せっかく赤井さんといくつもの口付けを交わして幸せな気持ちになったというのに、赤井さんの過去を勝手に想像しては気持ちが沈んでいく。そんな気持ちに歯止めをかけたのも、やはり赤井さんだった。

私の肩に腕を回し、そっと自らの方へと抱き寄せる。自然と肩が触れ合い、あっという間になくなった二人の距離は心の距離も縮まっているように思えた。言葉はなくとも赤井さんのぬくもりを感じるだけで想いが浸透し、心が満たされていく。おそるおそる、私もそっと赤井さんの肩に頭を預けた。

言葉を交わさなくても居心地の悪さなんて全く感じなくて、むしろ沈黙でさえも心地良い。しかしその沈黙を早々に破ったのは赤井さんだった。

「あの男とは親しいのか?」
「あの男……?」
「今日いただろう。常連だという……」

常連の男と言われて誰のことか考えてみたけれど、どれだけ考えても思い当たる人物はただ一人。

「あ……もしかして佐藤さんですか? 親しい……って言うんですかね……どうなんだろう。ずっと来てくださってるのでよく話すようにはなりましたけど、親しいのかな……」

預けた頭を持ち上げて、視線をまた赤井さんの方に戻すと少し不機嫌そうな顔がそこにあった。そういえば今赤井さんが私に問いかけた声も、お世辞でも機嫌がいいとは言えないものだった。

──この声、あのときと同じだ。今日の朝、赤井さんが佐藤さんと入れ違いで店頭にやってきたときと。

「そうか。仕事とはいえ、名前が他の男に笑顔を向けているのは少し複雑だ」
「え……?」
「……すまない、大人げないな。忘れてくれ」
「いえ……」

どうしたのだろう。いつもの赤井さんと様子が違う。さっきまでの赤井さんは優しく微笑み、余裕がある大人の男性という感じだったけれど、今の赤井さんからは余裕なんてものは一切感じない。少し拗ねたようにムッとしている様子は大人の男性……というより少年に近いもので、私の前で初めて見せる表情だった。

話の流れと今の反応。恋愛経験がない私の考えることだから勘違いという可能性も充分にあるけれど、これはもしかして。

「あの……もし違ってたらごめんなさい。赤井さん……その、ヤキモチ……妬きました……?」

自惚れかもしれない。大人な赤井さんがヤキモチを妬くなんてありえないかもしれない。でも今赤井さんが不機嫌になる理由は嫉妬∴ネ外に考えられなかった。おそるおそる問いかけてみると、すぐに首を縦に振って「あぁ」と一言、返事が返ってきた。

「赤井さんでもヤキモチ妬くんですか……?」
「当然だ。名前が俺以外の男と親しくしているのを見ていい気はしない。意外か?」
「はい……赤井さんいつも余裕そうなので、ヤキモチ妬くことなんてないと思ってました。意外ですけど、その……嬉しい、です……」
「そうか」

喜んでいいことなのか分からないけれど、とにかく嬉しかったのだ。ヤキモチを妬くということは、それだけ私のことを想ってくれているという証でもある。赤井さんにも少なからず独占欲があるということが分かり、照れながらも思わず笑みがこぼれた。赤井さんも微笑んでくれたのだけれどいつもの柔らかな微笑みではなくて、少し困ったような複雑な表情。

嬉しいなんて言ってしまったから、困らせてしまったのだろうか。でもどうやらそうではないらしい。

「あまり頻繁に顔を出すと、名前の仕事の邪魔をしてしまうかもしれないな」
「えっ……もう来てくれないんですか……?」

赤井さんの言葉に、驚きと落胆を隠すことができなかった。デートの約束がないときも会えて嬉しかったのに。赤井さんがいつ来店するのか分からないからこそ、いつ来店したとしても可愛く見られたくて毎日メイクも髪型もできるだけ手を抜かずに頑張っているのに。

仕事中、今では一番と言っていいほど毎日の楽しみだったことがなくなるなんて、考えただけで憂鬱だ。赤井さんに会う頻度が減ってしまう。そう思えば思うほど寂しくなり、私の視線は徐々に下がっていく。

「いや、これからも通うつもりだ。俺も名前の笑顔に癒やされている一人なんでね」

赤井さんの大きな手が伸ばされ、頬に落ちる横髪をそっと掬い上げる。そして髪の束を私の耳にかけ直すと、温かい手のひらが優しく頬に触れた。くすぐったくて、でも嬉しくて、赤井さんの手に従うようにゆっくりと顔を上げて赤井さんを見つめる。

「ほんとですか……?」
「あぁ」

甘く絡まった視線は、私がキスの気配を感じて瞼を落とすまでほどけることはなかった。

ゆっくりと触れた唇は今日何度も交わした口づけの中でも一番熱を帯びているような気がして、じんわりと身体中に広がっていく。キスなんて、言葉にしてしまえば唇と唇を重ねるだけの行為。外国では挨拶代わりとも言われるほどで、ただのスキンシップ。……なのだけれど、私にはとてもそうは思えなかった。

キスをするまでの動作や視線。ひとつひとつが甘くて、幸せで、愛おしい。それは一つのキスが終わると更に大きくなって、幸せが胸いっぱいに広がっていく。自然と表情は緩み、まるで溶けてしまいそうなほどに愛おしさが増す。赤井さんを見つめる瞳にも熱がこもり、そして赤井さんが私を見つめる瞳も熱くて甘い。

好きという気持ちが膨らむと好き≠セけでは到底伝えられなくて、でもこの気持ちを愛≠ニ呼ぶにはまだ早い。言葉にできない想いは私の中で大きく育っているけれど、うまく伝える術もない。

キスに慣れたかと言われれば決してそんなことはないのだけれど、ゆっくりと離れる唇が名残惜しいと思えるほど赤井さんとのキスは幸せを感じられるものだった。たった一日、いや、たかだか数時間でここまで気持ちが動くなんて、キスというものはどれほど中毒性が高いのだろう。これ以上のことをしたら私はどうなってしまうのか、考えただけでも恐ろしい。

「だがその顔だけは俺以外の誰にも見せないでくれ」

それも俺のエゴだが、と付け加えた赤井さんの私を見つめる瞳が柔らかくて、ドキッと大きく心臓が跳ね上がった。その顔≠ニ言われても鏡がないので私がどういう顔をしているのか自分では分からない。

今言えることは赤井さんのことで頭がいっぱいで、赤井さんのこと以外何も考えられないということ。そして赤井さんとの媚薬のようなキスに溺れてなんとなく目の前が滲んでいて、表情筋が緩みきっている状態だということ。

それらを指してその顔≠ニ言っているのなら、赤井さんの前でしかこの表情はできないだろう。

私も赤井さんの今の表情を独り占めしたい。柔らかくて、優しくて、でも胸の奥に秘めた想いが伝わってくるような真っ直ぐな視線。私以外の他の女性をこんな瞳で見ないでほしいと、いつの間にか宿った独占欲が胸の奥で声を上げていた。


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