土星のやくそく
一度赤井さんの家にお邪魔したことで恋人の家に行く≠ニいう私にとっては随分と高いハードルを乗り越えたからなのか、あれ以来いわゆるお家デートというものが私たちの定番になりつつあった。もちろん、今までどおり外食をしたりどこかに出掛けたりということもするけれど、赤井さんの仕事柄、家で過ごす方が圧倒的に時間の都合が良いことに気が付いたのだ。特別行きたいところがあるわけでもないし、何より赤井さんと過ごせるのなら場所はどこでもいい。

赤井さんに伝えると私がそう思っていたことが意外だったのか驚いた表情をしていたけれど、すぐに「ありがとう。では名前の厚意に甘えることにしよう」と優しく微笑みかけれてくれた。どうやら赤井さんにとってもその方が都合がいいらしい。

毎回とまではいかなくとも何回かに一回はデート中に電話が鳴ることがあり、そのほとんどが招集命令だ。となると当然赤井さんは自宅にいた方が動きやすいだろうし、幸い赤井さんのマンションからは駅が近いので私も電車で帰宅することができる。

赤井さんと共に過ごす時間が何よりも幸せで、私にとってはかけがえのない時間。……なのだけれど、ここ最近、どうしてもひとつだけ気になることがある。

何度赤井さんの家で逢瀬を重ねても、何度口づけを交わしても唇が触れるだけのキス止まり。唇を食まれたりぎゅっと抱き締められたりすることはあっても、それ以上体に触れられることもなければ口づけが深くなることもないのだ。やはり私は赤井さんにとってはまだ子どもだと思われているのだろうか。

たしかに男性経験は全くないけれど、赤井さんには触れられたいと思うし私も触れたいと思う。キスだって……もっと大人のキスをしてみたい。今のキスだけで充分蕩けそうだしこれ以上のことをしたら一体どうなってしまうのかと考えると少しこわい気もするけれど、それ以上にもっと赤井さんとの距離を縮めたいのだ。──心も体も。


赤井さんと正式にお付き合いを始めてから五ヶ月ほど経ち、秋の訪れを感じた十月のある日。いつものように赤井さんの家にお邪魔し、私たちはソファーで肩を寄せながら他愛もない話をしていた。話に一段落ついたとき、赤井さんが少し体を起こしてじっと私を見つめる。

何かを言いたげな真剣な眼差し。私もつられて体を起こし、じっと赤井さんを見つめ返した。

こうして自然と見つめ合うことにも随分と慣れてきた。今でもやっぱりまだ彼と見つめ合うのはドキドキしてしまって逸らしてしまいたくなるときもあるけれど、せっかく一緒にいられるのに逸らしてしまうなんてもったいない。

それにこうして視線が絡み合うときは決まってキスの雨が降ってくる。触れるだけのキスではあるけれど、それでもいつの間にか赤井さんとのキスを期待している自分がいた。

でも今日はまだキスの気配は感じられない。

「どうかしましたか……?」

私を見つめたままなかなか話を切り出さない赤井さんがなんだか珍しくて、思わず私から問いかける。何か考え事をしていたようで「すまない」と漏らすと、赤井さんはいつもの柔らかな微笑みを浮かべて口を開いた。

「今週の土曜日、迎えに行っても構わないか?」

どうやらデートのお誘いだったようだ。

「もちろんです。会えるのは嬉しいけど、お仕事大丈夫なんですか?」
「あぁ。最近は少し落ち着いているから気にしなくていい。連れていきたい場所があるんだ」

前もってどこかに出掛ける約束をするのはなんだか久しぶりのような気がする。今週の土曜日は私の出勤日。仕事終わりのデートは時間の都合上、赤井さんの家というのが近頃の私たちの定番なので、今のように「連れていきたい場所がある」と言われることは珍しい。

「どこに連れてってくれるんですか?」
「それは当日のお楽しみだ」
「えー、どこだろう……? ヒントとかないんですか?」
「そうだな……名前の好きそうな場所、とだけ伝えておこうか」

私の好きそうな場所……?
すぐには思い付かなくて、でもそれ以上聞いても教えてくれそうにないので代わりに赤井さんをまたじっと見つめる。表情に何かヒントがあるかもしれない。赤井さんはふっと小さく息を吐いて微笑むと、私の後頭部に手を添えて額にキスを運んだ。

さっきまでキスをするような雰囲気なんて全くなかったのに、不意打ちなんてずるい。唇が離れた額に手を当ててわざとらしくむっとしてみせたけれど、赤井さんはやっぱり微笑んでいた。

教えてくれてもいいのに、とぼやこうとしたところで今度は唇に赤井さんの唇が触れた。まるで私がそれ以上何も言えないよう口を塞ぐかのように。

またしても不意打ちのキスを喰らい、そして今度は何度も唇が重なった。すっかり赤井さんのキスの虜になった私には、これ以上行き先を追及することも行き先を考えることもできなかった。





約束の土曜日。だんだんと日が落ちるのが早くなっているようで、午後五時だというのに辺りは暗くなり始めている。夕陽を浴びる赤井さんの真っ赤な愛車はこの辺りでは一際目立っていて、店内のカウンターからでも既に彼が迎えに来てくれていることが分かった。

「お疲れ様でした。お先に失礼します」
「はーい、お疲れ様」

定時になったのですぐに更衣室に戻り、ささっとメイクと髪を整える。いくら赤井さんが迎えに来ていることに気付いていたとしても、これだけは欠かせない。だって好きな人にはいつだって可愛くみられたいから。

身支度を済ませてすぐに職場を出ると、赤井さんは車の横で煙草を咥えて立っていた。私の前では極力吸わないようにしているようなので、紫煙をくゆらせて佇む姿を見るのは久しぶり。私は全然気にしないのに。むしろ赤井さんが煙草を吸う姿は絵になるほど様になっていて、つい見惚れてしまう。いくらでも見ていたいくらいだ。

赤井さんから目を離せずに見惚れていると、たまたまこちらを向いた赤井さんと目が合った。私に気付いた赤井さんは目を細めて微笑み、煙を吐き出してから携帯灰皿に煙草を入れた。一分一秒でも長く赤井さんの側にいたくて、足早に彼の元へと向かった。

「すみません、お待たせしました」
「いや、大丈夫だ。お疲れ様」

ぽんぽんと頭に手を置かれただけで頬が緩む。たったこれだけのことで一日働いていたのが嘘みたいに疲れが吹き飛ぶのだから、やっぱり好きな人の存在は大きい。いつも通り助手席に座ると、赤井さんはすぐに腕時計で時間を確認した。普段はあまりしない動作だ。

「……まだ早いな」
「何がですか?」

赤井さんが時計を見ながらぽつりと口にした言葉に、思わず問いかけた。

「いや、こちらの話だ。出かける前に一度家に寄ってもかまわないか?」
「いいですよ。今日はどこに行くんですか?」
「楽しみにしていてくれ」

当日だというのに、どうやら目的地に到着するまで教えるつもりはないらしい。余計に行き先が気になるし、ここまで秘密にされるとよほど特別な場所に行くのではないかと妙に期待してしまう。今日は記念日などの特別な日ではないというのに。

赤井さんの家で小一時間ゆっくりしてから再び車に乗り込む。もうほとんど日は沈み、きらびやかなネオンが点灯している。周囲は完全に夜へと移り変わる準備を始めていた。土曜日の夜だからか歩道を行き交う人は平日よりも多く、その人たちの足取りもなんだか軽そうだ。かくいう私も赤井さんとのデート中。車に乗せてもらっているだけなので足取りもなにもないけれど、この日、この時間を楽しみにしていたので浮わついているところは同じ。

途中に寄ったレストラン。目的地はここかなと思ったけれどどうやらここは中継地点らしく、食事を済ませると車は赤井さんの家とは反対方向に向かって走り出した。

「明日休みだっただろう。いつもより帰りが遅くなると思うが大丈夫か?」
「はい。明日は何も予定がないので遅くなっても大丈夫です」
「了解」

自分から友人を積極的に誘って予定を詰め込むタイプではないので、基本的に誘いがなければ休日でも予定がないことが多い。私の仕事がシフト制なので、毎週土日が休日だと決まっていないことも予定がない理由のひとつ。それに、いつ赤井さんと都合が合うか分からないのにわざわざ予定を入れることはしたくないというのが本音。いつの間にか赤井さんを一番優先してしまうほど、彼のことを好きになっていたようだ。



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